ローマ法王ヨハネ・パウロ二世の死去を知る。
その人の死は、わたしにとって少なからぬ衝撃であった。ヒロシマナガサキのことを勉強していた子供の頃、その名を目にしたことがあったからだ。幼い頃の不思議な経験も関係しているのかもしれない。


わたし自身は現在も特定の宗教をもたず、神社にもお寺にも行く。本棚には、あらゆる宗教の本が並べられている。お墓参りをすると、どうしてもクリスチャンの人々のお墓が気になる。納骨堂で手を合わせ、墓前でもそうして、仏壇にもそうする。なぜなら、そこには、わたしが今なぜ生きているかを教えてくれる人々が眠っているからだ。
神も仏も、ご先祖も――昔がなければ今がないのと同じように。


まだ保育所にいた頃、教会に訪れたこともあり、それがどこの教会なのか、わたしは今も知らないままだ。どうやって問い合わせれば良いものか知らなかったせいでもあるし、もしかしたらその教会は、もうないかもしれない。保育所といっても公立、私立とは違い、宗教に関係すべきではなかっただろうが、なぜだか幼いわたしは、先生や友達と一緒にどこかの教会を訪れたことがある。
色とりどりのステンドグラスは日本にあって異国のようで、水のある台座のようなものがあり、子供たちはそれが「聖なるもの」とは知らなかったようで、わたしは触れれば叱られそうな気持ちになって、怖くてさわれなかった。子供たちの中でその台座に触れなかったのは、わたしだけだった。
出口のところで、黒い服を着た男性がみんなを見ている。わたしが行っていた保育所には、いわゆる「保母さん」だけで構成されており、保父さん*1がいなかったため、大人の男性のイメージが、小学校に上がるまで「父か医者か祖父」のどれかしかなかった。あの台座の水にさわると、あの男性に叱られてしまうのではないだろうか?
本来なら信者の人しか入れない場所に入らせてもらったのかもしれない、という考えは「お願いしてみんなを入れてもらった」という先生の言葉からなんとなく感じたことだが、誰もいない教会は静かで、物音がなかった。聞こえていた頃に、あんな明るいのに静かな場所へ行ったのは、あの記憶がはじめてではないだろうか。夜も静かだが、暗いものだ。
木造建築の限りなく優しい色合いと、太陽の光を通して輝くあざやかなステンドグラスと、少しほこりっぽい空気と、見たことのない台座と並ぶ椅子――十字架は見当たらなかった。あるいは、あっても小さくて、さすがに子供たちは近づけることができなかったのか。わたしは、その教会で、よくドラマや映画や絵本に出てくる像や十字架は見かけなかった。
やがて定刻を迎えて、建物から出なくてはならない時間になった。わたしはずっと水の台座を見つめていたが、一定の距離は越えられなくて、触れたいという好奇心と、触れれば罰があるのではないかという畏怖が、幼心にもせめぎあっていたのを感じた。みんなは興味津々にさわったり、水を手にしていたりしたが、わたしだけが何もせずじっと視線を注いでいるものだから、「あれくちゃんはいいの?」と、友達にも先生にも訊かれた。
「先生が静かにしなさいといったよ」
と、そんなことを返すと 、
「他のは駄目だけど、あれはさわってもいいのよ」
と言われて、わたしはみんなが群がってさわろうとやっきになっていたときよりも、ひとりで眺めながらさわれるという、少し有利な立場に立ってしまった。
先生はいいといったけど、だったら先生はかみさまを信じてるの?
そんなことも尋ねた。すると先生はちょっと困ったような顔をした(宗教が違うから、ということはわたしの年齢では詳しくはわからなかった)が、その水にも台座にも、さわっていいのだと言われた。


黒い服の男性なら、この人なら、神様のことをよく知っているから、悪いか良いか教えてくれる。怒らない? というようなことを質問したら、ほかのみんなが好き放題にさわっていたときには我慢していただけなのか、それとも本当にさわって良いのかがすぐ、顔に出た。後者の表情でほほ笑んでいたその男性は、怒りませんよと言った。
じゃあ、かみさまもおこらない?
返事は同じだ。「あなたは、怒られるようなことはしていません」――家ではよく怒鳴られたり叩かれたりするような「悪い」子でも、怒ったりしないだろうか? わたしはみんなの中で一番最後に、その台座に近づいて水を手にした。水はひんやりとしていて、けれど、水道からいつも出てくる水と違うということを、わたしは触れた瞬間に知った。
悪意もなく、無垢なものがただそっと触れるとき、それだけで神が怒るならば、そんなに心の狭い神なんて居るはずがなかったのに。
わたしは同年代の子と比べると、とても小さくて頼りなく見えた。もともと小柄に育つ遺伝子をもらってしまったのと、病弱だったのが原因だ。今では童顔の遺伝子ももらってしまったことが判明し、やはりわたしは、見かけも中身も年にしては幼く、頼りないままだ。


あの不思議な光景と記憶と、アルバムにある写真が、わたしに「宗教とは何か? 平和とは何か? 生命の尊厳とは何か?」と、途切れることなく問いかけてくる。
白い鳩に餌をあげている、わたしの昔の写真が――ひたすらに、いつも。

*1:当時の名称