昨晩帰るなり、TVとMacをつける。福岡の友達*1の安否確認はまずまずうまくいっていて、体じゅうから力が抜けてへなへなと崩れそうになった。その反動で、地震の画像などは見られない。見たらまた新潟のときのように、自分が参ってしまうからだ。
阪神・淡路大震災*2以来、日本列島では地震のみならず天災が多発している。わたしが成人するちょっと前は宮城やら仙台やらで震度5ほどの地震があったし、鳥取・島根に地震があったときは、ゼミ旅行の候補から出雲がすぐさま外れた。せっかく(食べられないのが)良くなったのだから出雲*3へ行かせてほしい、勾玉も見たいという気持ちがゼミ生としては強かったが、大学としては危険な場所へ勉学といえども連れて行くわけにもいかず、また、ゼミにわたしという被災者が存在したことも関係していただろう。宮城では騒いだが、鳥取では「ああ…」という感じしかしなくて、ネットを始めていたわたしは、そのときに知り合った人が心配になったりもしたけれども、被災地を見ても泣いたりしなかったからもう大丈夫だと思っていた。
そこへ、去年の新潟、そしてスマトラ。ショックで食事ができなくなるほど、わたしは弱くなっていた。久しぶりに夏に大きな地震を体験したことも無関係ではなかったが、そこで弱ってしまうほど、わたしは強くもなかったし、傷も浅くはなかった。新潟や福岡の地震も心配だが、わたしも気になるといってくれる友達がいる。
「PTSDって、いつ治るん?」
と訊かれたこともあったが、わたしは「少なくとも10年以上続くことはこれで確かに思う」と、被災地にあってなお患者を見つめつづけた、ひとりの医師の存在を思い出した。安克昌医師だ。安氏は精神科医であったが、みずからも被災し、PTSDになったことを著作で告白している。

心の傷を癒すということ (角川ソフィア文庫)

心の傷を癒すということ (角川ソフィア文庫)

眠れないと言えば、薬をくれる。それは患者にとってとても便利な医師だ。だが、わたしは薬なんてもらえなくても、どんなちっぽけといわれる悩みにも親身になってくれる人(おとな)が欲しかったのだということに、主治医が変わってから気づいた。「なんだ、このオジサン? ホントに大丈夫?」と一瞬「こんな医者は見たことがない」という顔を、わたしは元主治医に見せてしまっただろう。なぜなら元主治医の白衣は短くて、ゆったり座ってにっこり笑っていたからだ。震災から、2年が過ぎていた。
この人がわたしの人生の岐路ともいうべき20代の入口に居たことを、幸運だと、離れてしまって数年も経過した現在でも、思う。風邪をひいているくせに「ええやん、ちょっとは」とタバコを吸ってビールを飲み、肺炎をおこしてしまい「今日は先生ご病気で休診ですよ」…と言われたときはあっけにとられたものだが、逆にわたしは先生をからかい、その反応を見て「ああ、こんな医者いるんだ」と安心した。
傷ついた人を支える存在のあるべき姿というのは、どんなものだろうか?
不安を感じさせないように、威厳たっぷりにいつもネクタイをしめているべきだろうか。背筋をのばしていることは大切だが、「わたしはあなたを治してあげるんですよ!!」という、真面目くさった顔をしているべきなのであろうか。わたしは諸事情で何度も医者を変えているので、そのたびに観察している。そして至った結論は「ネクタイなんかいらないんじゃないか」という、ごく単純な答えだった。
ネクタイが傷つき病んだ人を治しますというのなら、
今頃、洋服の青山とかものすごいことになっている。
元気にリクルートスーツを買いに飛び出せるよ?



まだまともに福岡を見られない。修学旅行で訪れたこともあるくせに、情けない。自分が腑甲斐なくてたまらない。弱い、脆弱だ、もろいのだ、それが自分だ、おまえなんだと、神戸の綺麗なショーウィンドーに映るわたしの顔が言っていた。
弱いからこそ、自分でありったけを受け止めてやらねばどうするのだと。

新潟のときと違ってわたしは、福岡から目を極力そらすことを選んだ。見つめることはできない。見つめていたら倒れてしまいそうで、わあわあ泣いてしまいそうで。それでも、ちっぽけなわたしにできることは、まだ少し残っている。
まずはこの足で立って歩いていかなくては。倒れないように。それから考えよう。


泣いて立ち尽くしていた10年前のわたしが、やっと戻ってきた。
ごめん。この腕は一晩でいいから、わたしだけに使わせて。10年前のわたしに。

*1:チャットのみ

*2:正式名称は兵庫県南部地震

*3:上代文学ゼミの特色で、ゼミでは当時の国名で呼んでいた