親友と話す。ここ数年、どうしてか男性のほうが友達に多い。
ハガレンの新刊を横殴りの雪の中買ってきた」
「…一瞬、奉公を抜け出して街に出ていくおしんを想像した」
「いや、むしろ吉原の樋口一葉かと」
「それは豪遊ちゃうんか?」
「脳で腐女子の豪遊か…」
「アハハハハハハハ」
…そこは笑う場面なのか? 友よ。
携帯がバッテリも切れがちになってきたり、パケ代も定額ではないので、メールを打つと打っただけ跳ね上がってしまって困り果てて、ハガレンと何故だか一緒にひとめぼれしてしまった寺山修司をかかえて携帯ショップに飛び込む。ハガレン寺山修司という、わけのわからない組み合わせをかかえて、開かない自動ドアの前で跳ねている青白い客を見つけた販売員のお兄さんは、生きた心地がしなかったろう(爆)
わたしには何度か『自動ドアにバカにされる』*1という情けない前科があり、それは決まって体重が病気で一気に軽くなったあとに訪れた。
割引とあわせて、カシオが一万ちょっとまで下がった。それより前の機種だと、さらにポイントを使ってタダどころかマイナスで買えてしまう機種まで出てきてしまって、店員さんとひそかに戸惑う。プランについて筆談を交わしながらも、インフルエンザに入院に手術に…と考えると、父に言い出すのはとても気が引ける。
ほっといて、いつかあっけなく壊れて、データが消滅してもかまわないのならいいのだが、どうしてテレカを差し込んでもメールが打てないのだろう、と苦悩を感じること、しばしば(だって端末じゃないんだもん)。ポケベルのように番号を打ち込めれば嬉しいのだが、なぜメールは打てないのだろう。

寺山修司少女詩集 (角川文庫)

寺山修司少女詩集 (角川文庫)

ハガレン新刊について書いている日記はたくさんあるので、あえて寺山修司をチョイス。この本のほかにも詩集が同じ角川から出ていて、書店にあったのは4種類。その中からどうしてこの本にしたのかというと、ページをめくったら、言霊がダイレクトに刺さってきたからだ。「言霊」と「ダイレクト」を並べるあたり、わたしの国語力もおかしくなってきた。
父はわたしの本棚からときどき本を持っていくので、ちょっと雰囲気がどんよりしている本(明るい純文学なんかないやろ、という友人。確かにそうだが)――夏目漱石芥川龍之介太宰治川端康成志賀直哉といった教科書界の重鎮――少なくとも彼らのいない教科書は味気ないと思う――は、ひっそり奥にしまっておかねば危険だ。どうせ読むなら宮沢賢治にしてほしいという主治医の言葉は素通りして、隣にある三島由紀夫に気づいたら手をのばしてしまう。
ああ、タスケテ。
町澤氏に続いて今月の持ち歩き文庫は寺山です、なんて待合で読んでたら、いったい主治医は何度顔面神経痛になればいいのだろうか。
とはいえ、どうしようもなく惹かれるので、しょうがない。だって、海の詩があふれてる。自分の心をかすっていくせつなさが、つまっている。読みたいから読んじゃいけない本なんて、ないだろう。

寒いけど、少し海を見たくなった。見るというよりは感じたい。ドクターストップがかかってからは、海を訪れることがほとんどなくなったから、こんなにも懐かしく慕わしいのかもしれない。

*1:マットを踏んでも開かない