食べない日は、水分とエンシュアでもっている。それでも、少しでも食欲があるのなら食べるようになってきた。たとえひとくちでも、食べないのと食べるのとでは全く違う。
拒食症は相変わらず、教科書通りにいくならそのまま『成熟の拒否』だ。けれどこれって、本当にそうなんだろうか? それとも、わたしがいい方向に変わりつつある家庭と言っておきながら、その心の底ではまだ絶望にとらわれているのだろうか? わからない…
今日食欲がなく、ふらふらするのはホルモンのせい。
それでも父と駅前まで出かけ、何を買うでもなく、アフタヌーンティーでチャイを飲んだり、コムサでポイントを消費しようとあがいてみたりしたが、結局買い物らしいことはしないで、彼氏に1ヶ月遅れのバレンタインギフトを「返品不可」と言って送りつけたくらいだ(鬼)
なぜバレンタインがこんなに遅れたのかというと、本番である先月は点滴につながれて寝たきり生活だったのと、本人が「バレンタインと誕生日が俺は近いし、チョコレートも好きじゃないから誕生日と一緒でいい」と、毎年言っていたからだが、わたしはそれを額面通りの言葉として受け取って、
「そりゃ本命からもらえたら、好きじゃないチョコレートでも嬉しいもんですよ」
…ということを知らなかったのが理由だ。かつて男は見栄っ張りな生き物だと聞いたことがあったが、バレンタインってこっちも微妙なんだから、付き合ってるんだし正直に言ってくれても。とか呻いたりもしてみたが、それが言えないのが見栄っ張りなのかもしれない。
結局、荷物は発送の都合でバレンタインと誕生日が逆になってしまったり、手書きカードがあまりに子供っぽいので、お店で同封してもらうのが恥ずかしかったりして(そもそもこんな贈り物はあまりしなかった/手渡しだった)、誕生日の箱に2枚のカードが同封されることになった。何を贈るかは寸前まで決めかねており、その場で別のものに決まってしまって、話していいのか悪いのか、話したいけど話さないほうがいいんじゃないか、
「聞きたい?」とメッセで話すと、
「気になるからもうその話題はやめて(笑)」
…本当は知りたいのか。
こんなふうに恋をすることができたのは、わたしを支えてくれた人のお陰だ。
ネットで知り合った人もいたし、リアルで知り合った人もいる。年はわたしより下から祖母なみに離れている人までさまざまで、この恋と命があるときに、わたしを助けてくれた人は元気だろうか、そうならとても嬉しいという感情がわき起こる。
こんな感情は、数年前まではなかった。いつも、何かを憎んで生きていた。
父も母も特に何も言ってこないが(母はどうだか知らないが。「あんたたち、長いんだからそろそろ同棲でもしてみなさいよ」…って何?)、父も口先ではぶつぶつ言いながらも、何年もかけて彼氏を受け入れてくれている。会ったときは一緒に食事をしたり、妹の家でのようにはいかないが、わずかなりともうちとけた雰囲気も出てくるようになった。
父自身、母もだが、若い頃、ちょうどわたしの今の年齢の頃に苦労をさせてしまったから、恋愛にはものすごく慎重な人であると思う。まだ、遊びたくてたまらなかったはずだ。21と19で親になったのだから、あくせく働いて娘が大きくなっていくのを見守るのは、わたしが病弱であったため、考えていた以上にきつかっただろう。周囲から「あんたたちの結婚も育児もままごとだ」と言われたことも、あったという。一方わたしは共働きの両親を持って、保育所に朝早くから夜遅くまで預けられたり、夜勤が重なって、病院の託児所か知り合いの家に預けられることも多かった。
そんな子供は、可哀想だろうか? 少なくともわたしは寂しかった。「寂しい」とか「心細い」とかいう感情を、同い年の子よりも早く知っていた。保育所で親と別れるとき、よその子はギャーギャー泣くのに、はじめての日も「バイバイ」と笑顔で手を振っていたそうだ>というのは母で、わたしはこのことを卒園式のときに聞いて覚えている。それが「自分が寂しかった」のか、「変にものわかりのいい子に育ててしまった環境がつらかった」のか、わたしにはまだ、わからない。それでも母は当時26(!!)だったから、おそらく前者が強いだろう。
寂しくはあったが、逆にわたしはひとりでいられる方法を自分なりに編み出していたし、それが逆に正直に「寂しい」と言えなくなってしまったり、集団になじめない性格を作ってしまったことも事実だが、可哀想だとか考えたことはない。可哀想な子供だとか思うのは、いつも大人だけで、わたしは愛して愛されていれば、それだけで幸せだったからだ。音がない世界でも。
わたしは、いつだってあふれるほどの愛をもっていたはずだった。それがいったいどこを間違えたのか、なくなってしまったのかは知らない。傷に触れてしまうから知りたくないのかもしれない。
恋と愛はなんだか違うけど、愛がないと恋はできない。愛を想うとき、いつもわたしはあの春の夜に還ってゆくのだ――よその子でも、こんなに可愛い。自分の子だったら、きっともっと可愛い…わたしがネットを尊重するのは、わたしの人生をとてもいい方向に変えてくれる出来事があったからだ。それなのに、インターネットがからんだマイナス方向の事件が起きると、わたしは哀しくなる。


手術を控え、睡眠薬の耐性も強くなってきてしまったわたしは、当分我が子を抱くことはない。先のことを思うと、力強く支えてもらっていても、自分のひざが崩れてしまいそうなほど怖くて、妊娠どころか結婚そのものも、できない。
少しの家事と夢と通院だけで疲れてしまう今は、食べることすら精いっぱいだ。自分で立って歩くことだけでも、ふらふらになってしまう。
…この日、父が新しい携帯を買ってくれた。28になってまで、自分での買い物なんてできない。座って水分とカロリーを採ることができるようになってきた、それだけでも進歩は認めてもらっているけれども。


わたしはたぶん、わたしを本当に愛してはいなかった。
だから、物のように自分の体も心も酷使することができたし、ずたずたになっても涙ひとつ流さなかった。誰よりもわたしはわたしに対して敏感でなければならなかったのに――まるで、遠くにいる人を見るように感じていた。そうすれば痛くも苦しくもなかった。
事実、わたしの体をかたちづくるのは、細胞という生きた消耗品だ。こうしているあいだにも、体内ではいくつかの細胞が壊れ、あるものは排泄され、あるものはそのまま体内にとどまっている。あるものは、医術によって強制的に掻爬されなくてはならない。
わたしはこれから、せいぜい自分を愛していこうと思う。聞こえたり聞こえなくなったり感染症を起こしたりする右耳は決して好きではないが、この右耳をだいじにできるのは、わたししか、いないのだから。右耳を好きになりたければ、自力で這ってでも近付いていくしか、ないのだから。
少しでも大切な音を残しておいてくれた耳なのだ。聞こえても聞こえなくても、わたしの耳にしか、わからない音や声がある。それを聞くために、この体も耳もあるようなものだから。
この心も。