古本で買った、藤本ひとみ著の小説。
手許にいつも置いておきたい本は、新刊で買ってもいずれくたびれる運命であるし、古本で安く購入できるなら、それにこしたことはない。活字の本は一定期間を過ぎると買い取ってもらえないので、何度も読みたい本でなければ、あとで頭をかかえる羽目に、よく陥る。同じ作家の次の作品をずっと買い続けていたりすると、そんな目にあう。茅田砂胡を以前、とある人に奨められたことがあるが、わたしは途中で挫折した。《デルフィニア戦記》に始まり、《レディー・ガンナー》で止まったが、どうにも眠くなってきてしょうがなく、以来、懲りてしまった(どうもわたしには合わないようで、平井和正氷室冴子荻原規子あたり面白い。でも茅田氏が嫌いなわけではない。断じて)

ハプスブルクの宝剣 下 (文春文庫)

ハプスブルクの宝剣 下 (文春文庫)

ハプスブルクの宝剣》は、フランス革命で有名なマリー・アントワネットの母であるマリア・テレジア(テレーゼ)の少女時代、そして彼女に恋焦がれるユダヤ青年エリヤーフー・ロートシルトエドゥアルト・アンドレアス・フォン・オーソヴィル)の友情や決別、苦悩をえがいた物語だが、当たり前のようにカタカナが飛んでいるせいか、漢字で書けるものはすべて漢字表記にしているようだ。横に広辞苑がないと、少しわかりにくいが、持ち前の想像力で何とか補って、
…みたかった。未だにエドゥアルトやフランツの服装が頭に浮かんでこなくて、ない頭を絞って考えてみたら書いてあるのと違う人ができあがっていたりする。こういうとき、正確な資料や知識って、必要不可欠だとしみじみ実感する。
下巻も後半を過ぎて、一度はユダヤを捨て去り、オーストリア人になるためならどんな犠牲も払ってみせると誓ったエドゥアルトが、出生の秘密を知ってなお「ユダヤに戻りたい」と願う場面まで来ているので、次は《聖戦ヴァンデ》か《鑑定医シャルル》に流れ着くと思われるわたし。
(書評はどうしたの、わたし)
むしろ書評というよりも、読書感想文のようなものしか書けない。
まず驚いたのは、ユダヤ教の風習には当たり前に驚いたが(逆に神道や仏教だのを見たら、ユダヤ人だってひっくり返る)、何より差別の根深さに驚いた。しかも、この時代にすでにユダヤ人は居住区、つまりゲットーに押し込まれている。ゲットーは何もヒトラーに始まったことではなく、こんなに昔から圧制として存在していた。迫害は決して宗教上の理由だけからではないが、さらに突き刺さったのはエリヤーフーの「少年時代に律法をおさめた知識欲、しかし理論ばかりが先走る実行力のなさ」だった。
エリヤーフーがユダヤを捨て、エドゥアルトとして生きるとき、すでに実行力や大胆さ、無鉄砲さは、父親が入学を望んだパドヴァ(イタリア)の大学で培われていたが、これが原因でオーストリア人に変わることを強く渇望した彼は、いきなり激動のさなかに放り出されている。ユダヤ人として生きることも激動な人生だが、ひたすら耐え忍び、朽ちていく人生なんてイヤだ、とエリヤーフーはみずからを渦中に置く。もしパドヴァへ行っていなければ、家業を継ぐか居住区の医師となっていた。
皮肉なことに、エドゥアルトは最後は「戻りたい」と望む。戦場に身を置き、その才知で宮廷という戦場でも幾多の功績をあげ、そして彼を愛しながら憎むテレーゼの策略によってふたたびユダヤの地を踏むとき、どれだけオーストリア人であろうとしても体は変調をきたし、家族へのあふれる想いを再確認したとき、決定打となる「愛」を知る。
友愛、恋愛、師弟愛。いろんなかたちの愛がある。
すっとぼけたもので、わたしは精神科で主治医にまじめくさった顔で「恋愛ってなんですか?」という質問をしてしまったことがある。彼氏がいて、することもしておいて何を言っているのか、からかっていないか、主治医は複雑な顔をしていた。わたしの愛はアガペーに近く、エロスから遠い。だから、恋愛がどのような愛かわからず、わかる必要もなく、ただ彼氏が好きという理由と気持ちから、恋人という関係になった。
だが、世間がいう「恋愛」は、何なのだろう。いわゆる恋愛なら、愛があれば3歳でも「僕のお嫁さんになって」とできるが、大人の恋愛は思春期以降から始まるという。要するに性的交渉があったり、将来を考えたりすることだ。
そんな説明をされながら、わたしはとても奇妙な気持ちになった。友愛も師弟愛も、弱い者に向ける愛ならあふれるほど受けて育った。ただ、家族愛や親子愛という存在を感じたのはここ数年で、恋愛は最後だ。彼氏ができて7年になり、そのあいだにいろんなことを話した。
遅いだろう恋愛に、後悔はない。ただ、主治医の言うように、思春期に恋愛をしていたら、わたしはどうなっていたのだろうか、と思った。もう少し、男性の気持ちに敏くなれていたのだろうか? 恋愛における「かけひきとやら」が、できるようになっていたのだろうか? 少なくとも、わたしよりも早く恋をした親友にアドバイスすることは可能だったかもしれないが、当時のわたしは勉学や進路の相談は受けられても、恋愛はからきしだった。
今も、恋と愛の違いがよく、わからない。それでもわたしは、彼氏がひとりの男性として、好ましく頼もしく感じる。できることなら、多くの時間、そばに在りたい。
わたしには最近、喜ばしいニュースが少なくて、泣いてばかりいた。もとより泣き虫なわたしは、止まるまでずっと泣いている。頭痛薬でぐったりするほど泣いたこともあるが、正直に泣くよりも、涙を我慢すべきときはあるんじゃないだろうか…
カリエス再発、インフルエンザ、悪化した鬱と拒食症。
わたしも苦しいが、わたしが病気であるのを苦しく思う人もいる。つらいときにこそ笑いたい、相手の心配しているときにこそ、ほがらかに笑いたい。できれば作り笑いではなく、心からの笑みがいい。
少しくらいつらくても、つらいからこそ笑顔を見せたい人を、わたしはそんなことを打ち明けてから、10年経ってやっと見つけた。その人々に、わたしは愛をもっている。いろんなかたちの。