ほーんのたーめならえーんやこーら。
…と、注射と点滴がないとままならぬ身で何をしているのか、アクエリアスだけを原動力に書店をハシゴしている。高河ゆんメールマガジンが届いていて、今日が新刊発売日じゃないかぁっ!! と、クリニック近くの大手スーパーコミックマーケットへ……
限定版がないっっっ!? のぉぉぉぉぉ!?(悶)
その後、やはりアクエリアスだけを飲みながら、逆方向の書店に向かって歩き出した。収穫は他にもあり、青木琴美著《僕は妹に恋をする》、相原実貴著《ホットギミック》、荻原規子著《西の善き魔女》(文庫)各最新刊をゲット。あなた、朝からアクエリアスしか胃に入れてませんよ…?

お目当ては、こちら。…新刊のためか画像が出ません。今回の限定版の付録は、クリアファイルと小冊子。同時新装発売の《超獣伝説ゲシュタルト》はガンガン版を手放してしまったので、またお金に余裕があればそろえるだろうと思う。最近は文庫も出ているが、順番からいくと《サフラン・ゼロ・ビート》が文庫にならないのは不思議だ。出版社との問題があるのだろうか?
今回の《ラブレス》内容はいよいよ作者好みになってきた(らしい)、佳境突入。わたしとしては、前巻の倭と更夜の激しい絆が好きなんだけど(危険な意味ではない。断じて)、友達(&在籍していた大学の先生)に「面白い本ある?」と訊かれて、まず最初に奨めてしまうのが、エヴァンゲリオン高河ゆんだったりするあたり、自分はもうどうしようもなくヲタの世界に首までつかっているのでは…と思った。その前に先生はわたしを『面白いものを持ってきてくれる学生』と思っていた(爆)
小説なら当時は、《ブギーポップ》や《魔術士オーフェン》、いつ完結するのか不明な《銀の海 金の大地》と《吸血鬼ハンターD》、《魔界都市ブルース》などで盛り上がったものだ。氷室冴子はなぜか学長先生まで読んでいたという逸話があり、吹っ飛んだことがある。とある年度には講座に手塚治虫が登場し、試験時に「お昼とドリンクおごるから手伝って!!」…と緊急頭脳動員がかかったこともある。おごられなくても手伝った。時間外頭脳労働をグウタラなわたしに自主的にさせるなんて、おそるべし某学院大学…!!


高河ゆんは、わたしがまだ義務教育に身を置いていた頃からすでに《アーシアン》を執筆しており、それがアニメになったときの作画監督が、好きな作品のキャラクターデザインも手がけた大貫健一で、他の作品ならどういう絵になるのだろう? という純粋な興味が最初のきっかけとなった。結果はどう、というとご覧の通りで、《アーシアン》はわたしにとってファースト、いや、セカンドインパクトだった>《ガルフォース》にも小説買うぐらいはまったあたり、すでに軍服美少女に萌えていたきざしはあったが、本人は気づきたくなかったのか気づかなかったのか不明。
高校では「あったかいんだもん」ニーソを愛用していた。あれって萌えアイテムだったのか。知らなかった。眼鏡をかけて三つ編みもお下げも作ったが、どうも着用している本人がヲタで美少女ではないのが悪かったようだ。投稿雑誌に載るたびに持ってきて書店のおっちゃんにも見せて次号原稿を昼休みに食事抜いてまでやってましたなんて死んでも言えない←もう遅い。
…ゆん先生、男の子のあたまにリボンがついてますっ!!(カルチャーショック)
高校でも、田村由美著《BASARA》や、岩崎陽子著《王都妖奇譚》、渡瀬悠宇著《ふしぎ遊戯》、かの巨匠・宮崎駿著《風の谷のナウシカ》などが友達のあいだで大人気で、そろえていたわたしは、新刊が出るたびに友達と貸し借りをしていた。わたしが借りていたのは日渡早紀著《ぼくの地球を守って》と、樹なつみ著《花咲ける青少年》という顔ぶれだったが、鋭い友達に見抜かれてしまったのちは、山岸涼子著《日出処の天子》…ああ、年がわかりそうってなものだ。
むろん《アーシアン》ならびに《サウス》または《ウィングス》系の作品は、まっとうな友達にはいたく不評で、ちょっと腐女子要素を有している一部の方々にしか受け入れられなかった。
この《アーシアン》をライバルの《聖伝》と一緒に持ってきた時点でわたしのヲタっぷりが決定し、ヲタ要素を見い出した今も続いている友達なんかは、どんどんなぜだかアブノーマルなコミックスやら小説やらを持ってきてくれた。大学に進学すると互いに触発されて、吉田秋生萩尾望都竹宮惠子の世界に、
わたしだけが時代劇の階段シーンよろしく激しく転がり落ちていった。
ゆるやかに落ちていくなんてズルイよ、君…


そんなこんなあんなで、ずるずるとゆんワールドに今も引きずられていっている。
死んでいるとされた清明が生きているという疑惑、草灯の隠された記憶と人間関係(そもそもこの人の交友関係って…)、謎の新キャラクター登場、母親の立夏に対する虐待と歪んだ愛情…という怒濤の展開を迎えたが――あえて言うならゆん作品に怒濤じゃない展開ってありえない――倭&更夜のゼロシリーズコンビのゆくえが、どうしても気になってしまう。
彼女たちは「ゼロは死にました。ここにいるのは、ただのヤマトと、ただのコウヤです。さようなら」と、ゼロとしては死に、ただの何もない人として生きることを選んだ。ちょうど《妖精事件》のじゅりあが中学生というステイタスと争ってばかりの両親を捨て、ひたむきな愛のほかに何も持たずに王子を追いかけたように。《源氏》の克己が、連載開始しょっぱなから土下座してまで彼女になってもらった、記憶喪失状態の桜を選んだように旅立ってしまった(途中で克己は源氏=頼朝同様、体のほとんどが生身でなくなってしまっている)から、気になり過ぎるのかもしれない。わたしにとって。
サフラン・ゼロ・ビート》でロボット・カドミウムは去らずに鋼といつまでもいたし、《アーシアン》では、天使ちはやはエデンを去っても影艶がすぐに追いかけてきた。
ただ、あのゼロたちは、どこかから去るときに、ひとりではなくふたりだったから。
だから、こんなにも気になるのだ。ふたりでどこまで旅をするのか、その果てはあるのかと。
同じひとりでも、《ゲシュタルト》のシャザーン(ランスロット)の行く末は、決まっている。彼はいつでもどこでも、スノウ・ホワイトのようなたったひとりの女性ギネヴィアのもとへ還ってゆくのだから。