薬が減った。一気に4錠。
それは火曜日のことだが、反動でわたしは起き上がれなくなってしまっていた。起きられるのはだらだらと惰眠をむさぼったあとで、そうでなければ動くこともままならなかった。今でも体が「寝よう、横になろう」と誘っている。横になっているときがわたしのいちばん楽なときで、火曜日からほとんど外にも出ていない。
減った薬は、朝晩のデパケンと、晩のトレドミン2錠。この選択が正しかったかどうかは、様子をみてみないとわからない。

今日は昼過ぎに「えいっ」と起き上がって、その勢いで入浴も済ませる。ああ、何とかできたじゃん自分、何とかなったじゃん風呂、という具合だ。浴槽につかるとお湯はほどよく熱くて気持ちよく、お風呂に入ることができるのがこんなに幸せだと思ったのは、何年ぶりだろうか? 普段は「お風呂に入ることができるのは当たり前」と思っていて、シャワーもできるのが当たり前だと思っていて、ありがたみというものがすっかり消えていた。
(持っていてもしょうがないような記憶がさだかなら、最近ありがたいと思ったのは入院中だろう)

髪の毛を乾かしたら、電話の用事で待機。用事がなかったなら、ファックス用紙を買いにいかねばならない。
我が家のファックス(電話機)は古いせいか、携帯とはまったく聴こえが違う。携帯のほうがとても聴こえやすいのだ。
しかし、こんなことをいちいちあちらこちらに説明していられないため、聴力がいいときに携帯から用事があってかけると、「ああ、電話ができるぐらい回復したんだ」…と思われてしまいがちである(滅)。よく知っている人は、それが「一時的な回復でしかないが」とわかってはくれるが、よく知らない人は「治ったんだねー」と思ってしまうのである。

治らないから「障害認定」されてるんだってば…(涙)…というわけで、何ともならない、できないのが、わたしにとっての「今の耳」であり、何とかなりようがある、できるのが「精神的なけだるさ」、しかし、それも「今は何とか」「自分でできようがある」のであって、もしも薬を減らしたのがよくなかった選択で、主治医の見当違いの病であれば、わたしはずんずん落ち込んでいくしかない寸法だ。

それにしても、レキソタンを飲まずにやっていけるのはいいことだと思う。
メイラックスを飲まねばならないのだが…