連鎖のように、自殺や自殺予告が相次いでいる。連鎖反応が起きるのではないか、と思っていたら、案の定起こってしまった。これを止めるすべは、本当になかったのだろうか?

いじめだけでなく、虐待も受けていたわたしは、毎日がしんどくてたまらなかった。12で自殺も考えた。「今、あの窓から飛び降りたら、少なくとも今わたしをいじめている奴らは後悔するだろうか」――するわけがない。自分が一番だと思い込んでいて、世界は自分を真ん中に回っている、回せると思い込んでいるクソガキに、自殺はそこまでの効力は持たないだろう。
「そういえばわたし、まだやりたいこともやってないんだよね。
 あんな奴らのためになんて死ぬだけ損する」
それが、わたしの小学6年生のときに感じたことだった。

22歳まで、父親に殴られて生きてきた。「死ね」と罵られたこともある。
時間は19歳に戻るが、わたしはそれが一因の拒食症=緩慢な自殺に陥ったことがある。月経が止まり、骨と皮だけになり、何も食べられず、点滴だけで生きていた。別れた母は助けてくれない。祖父もわたしの様子に気づいていない。だけど本当にそのまま死にたかったなら、点滴なんて毎日打たれにいかなかった。
緩慢な自殺と、わたしは拒食症をそう表現したが、本当は死にたくなんてなかった。死にたくなかった。生きたかった。生きたかったから、毎日点滴が漏れても打ち続けていたのだ。痛くても、どんなに痛くても、からだの痛みは一時的なものでしかなく、こころの痛みはずっとずっと強いものだったからかもしれないが。



ねえ。
死んだらホントにすっきりしますか?
いつか「この人に生きていなければ会えなかった」と思える人に出会えるチャンスが全部ふいになってしまうのに。
そういうのって、すごくもったいない。
実際にわたしは『偶然出会った人』に、お金よりも宝石よりももっともっと大切な、価値なんてつけられないほどのものを貰えた。
がっちりと閉ざされていたこころのドアがゆっくりと開いたあの瞬間を、わたしは一生忘れないし、忘れられないし、開いてくれた人のおかげで、いろんなことができた。恋愛もできた。
失恋もした。失恋したときはホントに苦しくてつらくてリスカもプチODも少しはやったけども、「あなたの存在がわたしの救いだよ」と言ってくれる人にまた再会できて、そう言ってもらえる自分のために、わたしは何とかリスカもODもやめた。

本気でやめたいことって、やめられるんだなぁって思った。
またやってしまったそのときは、救いだと言われたときの自分を思い出して、やめてみせる。

「キモイ」「きしょい」「寄るな」「触るな」「つんぼ」「消えろ」と、罵られ続けた義務教育時代の傷は、今もわたしのこころに残っている。とても痛い、今でも痛い。主治医に「ダイエットして綺麗になって、ああいった奴らを見返してやりたい!!」って先週言ったけれども「貴女が綺麗になる努力をするのは大層良いことだけど、見返してやる必要までないんじゃないですか?」……その通りだよね。ダイエットもメイクも全部、「綺麗になりたい」自分のため。
どうせ奴らも忘れてる。わたしをイジメていたことなんて。
そんなくだらない奴らは、見返してやるだけの価値もない、ただのクズのクソガキだ。そんなことに、自分の時間を、現在どころか未来にまでさくなんて、もったいなさすぎる。

あんな過去に負けていられない。そう思えるわたしが今ここにいる。
だって、今日まで生きていたから。

未来を生きるんだよ、人は、みんな。いつも。今日も、明日も、あさっても。
だから、自分からいのちを捨てるなんて言わないでほしい。
どれもこれも似たり寄ったりで同じように見えるいのちでも、よく見てみたら全部全然違ってて、たったひとつしかないのだから。

今捨てたら、絶対もったいないよ。