食べて、薬を飲んで、家事をして、通院をする。
本を読み、ゲームもし、メールを打つ。
ときどき、必要なものを買いに出かけたり、のんびりとお茶を飲んだりもする。

大学を辞めてから、本当に生活が静かになった。穏やかでは決してないが、静かな時間。レジュメやレポートに追われて、授業に出ていた頃とは全く違う時間を、わたしは現在、過ごしている。
家事すらできなかったことを顧みると、わたしは大学を辞めて正しかったのだろう。通院にどうしても時間をくってしまう。宿題ならばまだ病院でも考えることはできたが、授業に出ることは不可能だった。通学のための時間を通院に使い、「何でわたしがこんな目に」と落ち込んで、とことんマイナス思考にとらわれてしまうこともしばしばあった(どうも、聴こえなくなった方々の話を聞いていると、そうなる人は多いようだ)

大学を辞めた頃、わたしには鼓膜がなかった。骨もなかったし、これから再生することもない。鼓膜は何故だか奇跡のように(主治医も奇跡と言っていた)再生したが(通常、手術が必要なはず…)、鼓膜の内側にいつも粘液がたまってしまうわたしは、音を逆にどんどん失っていった。今は、鼓膜チューブを留置して聴力を取り戻しているだけであって、不可逆的な病変は元通りになることはない……
それでも、聴こえることが嬉しい。聴こえなかった頃には「聴こえるということは良いことですか?」と真顔で訊ねてしまうほど、音がわからなかった。理解できなかったし、しようもなかった。

わたしは現在、リハビリの日々を過ごしている。
色んな音に慣れていないため、ふらふらしてしまう。
好きなアーティストのCDを久しぶりにかけると、不思議な感じがした。
音が若干違うからだ。勿論、音程も違って聴こえる。
最近は、音楽を聴きながら眠るのがお気に入りだ。とは言え、やはり障害は残っているままであるから、イヤホンをしないと聴こえないのだけども。


聴こえる、ということ。菌が出ていっていること。
これが「良いこと」なんだろう。