カテゴリが間違っていないだろうか、と、この文章を書く前に、少し思った。闘病がもはや日常となっていて、なおかつその前にあるハードルは、すでにそれ以前に、死ぬまでまとわりついてくるものである。

倦怠感のまとわりつく体を引き剥がすようにして起床すると、玄関に保健所からの封書が届いていた。送られる覚えのない封書は分厚く、開封すると書類がわさわさと出てきた。
障害者自立支援法
…何だソレ…
届いた封書は32条のものなので、耳のことがさっぱりわからない。そのままクリニックへ持っていくと「あなた、熱があるじゃない」…道理で、読んでも意味不明だったわけだ。いや、なくても意味不明な紙切れどもなのだが。
32条の患者票を「ここは、あなたが自分で書かないとならないから、この書類はまた来週、書いて揃えて持ってきてね」と渡される。この患者票そのものに患者が手を触れることは、少ない。少ないっていうか、ほとんどない。全然ない。あるとしたら、申請したものが出来上がってきたときか、医者を変えるときだけなのだが、実はこんなときでも、患者本人がその票を目にすることは少ない――
何故なら、患者またはその家族が気にするのは「32条の適用か否か」であり、その書類そのものでは、ないからだ。適用された時期に遡って、医療費が戻ってくる。戻ってきた医療費及びその時期はとても大切だが、顔も知らない知事のハンコなんて、知事でなければ意味がない。


…1ヶ月で3度も風邪は、きつい。
ましてや年中、こころの風邪の身としては。
この法案に対してのわたしの思いは少ない。
「で、何が言いたいの?」
自立の定義を具体的に200文字以内で述べよ。そんなところだ。
「更正という言葉がお好きなようで」


なんとひねくれた女に育ったことか、と我が身を自嘲する。どんなにつらくとも、まっすぐに道を貫く人も在るというのに――そしてわたしは、そのような人々をたくさん知っているというのに――
ひねくれさせたのがこの社会だ、とは言わない。
人はどのようにも育っていける存在であり、かつ柔軟な魂を誰もが持ち得るがために、それに瑕疵を及ぼさぬような、そう、所謂「教育」「保護」というものが必要であり、わたしはその「教育」そして「保護」により、可能なだけの選択肢を片っ端から掴んで来た。
普通の子と同じように育つ「権利」――
昔はそれが、痛いほどによく理解できた。
でも今では、おぼろな輪郭さえも、わからない――何故?
「義務を果たしてこその権利だ」
その言葉さえも。


権利なくしては果たせない義務があっても、
まだ、でまかせを言えるのか、この口は……


きっとそれは、
きれいごとだと言われても、
それを信じたい自分が居るからなのだろう。
何もかもを信じず生きれば何も失うことはなく、
裏切られることも裏切ることもなく、最初から何もなく、
失うものがないから痛いこともないはずだ。


けれど、そんな考えこそが「きれいごと」であって、
自分を信じなければ足場さえもが崩れてしまい、
自我を保てないわたしが、今、ここに居る。
壊れかけた自分でさえ、壊れた自分でさえも、信じるに値するのだと。




さて、風邪ブームが去るまでに、もう少し壊されてきますか。
ヤワに出来てないんだという証拠を打ち立てるために。