今年も三が日が全滅した。
アデノだか何のウイルスだか知らないが、今度は扁桃腺が腫れるという憂き目にあい、3日間唾液すら飲み込むのが苦痛だった。しかも昨日は全く食欲が無いところに無理をしてでも食べたのが悪かったのか、冷汗と吐き気がこれまでの症状にプラスされた…
喉は耳に抜けるように痛いし、左耳は穴があいてないから炎症を起こしたら右耳よりも治りが遅い。微熱のくせにだらだらと下がらない。咳が出れば頭痛がする。からだじゅうの関節や筋肉がギシギシと痛い>微熱のくせに信じられない
何で正月からこんな目にあわないといけないのだ――
初詣に去年は行けなかった(去年は拒食症の再発)から、今年こそは行こうと思っていたら、またそれどころではない。
しかも入浴できない。熱が下がらないからだ。
あの初詣客の中で誰かがこの風邪をひいて、わたしが初詣へ行けててもいいんじゃないか。ムカツク。
晦日の新聞記事にもグッタリしてムカツク。
父親がまた連絡もなくどっか行ってるので料理作ってもいないのに何故かムカツク。
そんなことで怒る自分の狭量さと見苦しさに、さらにムカツク。
悪循環で結局、去年と同じように滅入って泣いている。
幸せな涙なんか元日だけか…


正月にほとんどの悪運は使い切ってしまったと思おう。
そう思わなきゃやってられない。




良かったなぁと思ったことは、時代劇に好きな俳優で上位に入るユキリョウイチが出ていたことくらいだろうが、この人、わたしが追っかけられだした20歳のときから顔がほとんど変わっていないという驚異の人物である。
「こういう人を世間では童顔というのだろう」
と、数年経過しても変わらなかったときに、サイン入りの写真とTVを見比べて、さらにCDのジャケットとサイトを見比べてしみじみと考えたものだが、まさか当の自分がそれ以上の童顔だなんて、言われるまで気づかなかったというオチまである。
上には上。
わたしは、今年も来年も「彼以上の童顔であれたなら」と、下らないことを思いつつ見とれていた。


タッキーが出ていたから観ているわけではない、去年からの楽しみだった《里見八犬伝》――は、少しぬるま湯のような感じがした。20数年前の映画版と比較すれば、なるほどCGなどの技術も上がっているだろうが、信乃の着物が浅葱裏――当時でいう『田舎侍』色――にしか見えず、微熱と3セットでげんなりしてしまった。ワダエミのことである。それくらい意識して作ったのであろうが、どう見てもこれじゃ田舎侍(安房の小国ってそんなものか)…
キャスティングは豪華。映画では信乃(!!)を演じた京本政樹が、今度は信乃を追いかけ回す公方になっているのがツボ。これに気づいた人は、かなりのマニア。つまり、わたしそのものがマニアということ>自爆
オープニングからして、兄弟愛と親子愛に基づく、きれいな美しい話だとは思う。
けれど、信乃を慕って家出してまでついて行く浜路があくまでも『ひとたび守護者の手から放たれれば生きられない信乃の恋人』であり、最後まで『国を支える女性』には戻らなかった描写(武家の姫という空気が伏姫と違いラストにも全く感じられない。ミスキャスト?)や、「智の珠とはよくいったものだ」という毛野の台詞といい、1人で生きるには、玉梓に「おまえを強く賢くしてあげよう。男どもに復讐するがよい」と言われたように動かされてしまい、まさに「愚かで弱いゆえに男にすがらねばならなかった」船虫の生きざまといい、映画版を凌ぐにはいまいち時代遅れな感じに仕上がったのも否めない。20数年前の映画を横に置いて「時代遅れな感じ」というのはどうかと自分でも思ったが、正直なところ「映画のほうは脚色が大きく、娯楽ものとしては高レベルだが、ドラマは地に近くても信乃の独り舞台みたいだ」…八犬士はそれぞれの個性を持っているが、信乃を中心に据えるとどうにもそれが薄くなってしまい、かといって並べても劣らないくらい濃くすれば悪役(わかりやすい。みんな赤い着物)が浮き上がってしまうという、薬にも毒にも変えようがない内容となってしまった。何より滝沢馬琴による原作は『勧善懲悪の娯楽もの』と呼ばれているにもかかわらず、悪は最後まで悪たらず、善によってしばかれてぎったぎたにされるどころか、救われてしまっている。
もしもこのドラマに「この時代の女性は男性より社会的にずっと弱かった」「現代でもそのような色は濃い、しかし男尊女卑はもう遅いのだ」とか言う要素を加えたかったとしたら、「原作はともかく、脚本が悪かった」としか言い表わしようがないのである。
ひとつだけ手落ちがあるとしたら「話を美しく作り過ぎた」ということかもしれない。美しくて、きれいで、人をのこころを動かすことはできるし、わたしはそれを知っている。
けれど、甘ったるい味が抜けない。まるで子供の駄菓子のような。