友達と会う。電車に揺られる時間が長くて、2人で居眠りをばこく。
わたしは携帯の表示で会話するが、車内では原則として携帯は禁止となっているため、無口になって、それがまた眠気を強くする。
何かの声で、目が醒めた。
赤ちゃんの声と猫の声は似ていると思う。
電車で旅をする猫がいても、今更不思議には思わない。行儀の良い犬猫は、行儀の悪い人間にまさるところがある。しかし、赤ちゃんが泣くのは生理的な問題があるときであって、床に寝転がって駄々をこねるのとは、わけが違う。
「長く泣く子だが、大丈夫なんだろうか」
大丈夫ではなかった。
人と人の隙間から見える、その赤ちゃんは、母親らしき女性から暴力を受けていた。ベビーカーを揺さぶるなんて甘いものではない。女が、赤ちゃんの泣いている口を叩いている。つつく、なんてかわいいものではない。ブラウスの袖で塞ごうとしたり、素手で叩いていたのだ。泣き止まないとわかった女が、食べ物を与える。お菓子だ。赤ちゃんは空腹だったのか、お菓子を頬張っていた。
眠気で、ありもしない光景を見たのだろうかと思った。
ベビーカーに乗っている赤ちゃんは、自分の視点の高度を簡単には変えられないし、人間のぬくもりもわからない。
横に座る友達も、同じ方向を見ている。

「あの母親、ヤバい」
「どう見ても虐待だ」
いちばんヤバいのは、そんな行為を止めようともしなかった自分と周囲の人々だろうけれども、電車が到着すると、女はベビーカーを走るような勢いで押してどこかへ去ってしまった。
「ガキがガキを産むな」というのは、こういうことなのか。


守るべき存在をみずから見失い、闇のなかに身をおどらせる。
守られるべき存在は、守護の手がさしのべられても、気づかなくなる。
あの赤ちゃんの瞳は、凍えたようにつめたいものでは、なかったか。
問題をおこしても、守るべきではなかったか。
女として。人間として。