わたしたちは、薄れゆく哀しみを哀しむ。寂しいではないかと哀しむ。そして、哀しむのは、いつも、その哀しみを渡された人間だけで、渡した人間にとって、その哀しみはもはや『哀しみ』では、なくなってしまっている。

この歳になるまでに、大体の本好きな人が読んでしまうはずのものを、わたしは読んでいなかったりする。なんと《赤毛のアン》は最初のところで止まってしまっているし、《星の王子さま》を読んだのは、たった今だ。どんなことにも、何かしらのきっかけと、そのきっかけを掴むためのパワーは必要なものだな、と、すでに何度か訳されて、本として成り立っている《星の王子さま》を手に取った。それが、数時間前のできごと。
わたしは、ついさっきまで、この本の内容を知らなかった。
つまり、わたしはこの本にめぐりあうまでの28年と半年を、その存在だけは記憶の片隅に置きながら、すすんで近寄ることをせずに過ごしてきた。今まで、それ以外の本はいろいろ読んだし、もっとも、だからといって、「それで良い」というわけでもなく――学術書が教えるのは学問だけ――この《星の王子さま》をもって、完結するような本の人生でもない。
ただ、不思議なことはあるもので、わたしは「共鳴」だの「電波」(というほどひどくもないが)だの呼んでいるが、本どうしが引き寄せられることがある。手許に《飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ》という、ある医師が遺した本があるのだが、「星の王子さまに出てくる、キツネは」

…ちょうどわたしは、そこで《星の王子さま》を、調べたいことがあるからと一旦読むのをやめていて、しおりを挟んだページの次のページに、キツネが出てきたのに、素直に驚いた。
ほんとうに大切なものは、目には見えない。
わたしがそう言ったのは、今から10年前になる。自分の生き方がわからなくて、どう生きれば良いかもわからなくて、わたしはそれを知りたくてたまらなくて、ただ「ありのままで居れば良い」ということを認めたくなかった。認められなかった、そんな頃だ。
要するに、わたしは自分にいつも不満を感じていた。自分を取り囲む環境にも。
もし、この一言を言えないわたしであったなら、もっと別の気持ちを《星の王子さま》を読んで、いだいたろう。
不思議なものだ。
今でも、「どう生きるのが正しいことか」なんて、そんなことは、わからないし、知らないままだ。わたしはこの先、自分の無知を突きつけられるだろう。ゆえに、苦しみもがくときも、あるだろう。知っていればせずに済む苦労なんて、これまでも、今現在も、これからも、たくさんあるに違いない。
それでも、それさえもが、かけがえのないものとして、わたしという存在を構築していくのだ。ゆっくりと、姿かたちを変えながら、わたしはどこへ行くのだろう。どう変わっていくのだろう……

そうして、わたしは、かつて読んだ漫画*1を思い出す。
「ぼく、五億の鈴のひとつになる。夜空をみたら、笑ってね」
と、恋した少女を残して消えた、金髪の少年を。彼が消えた砂漠を。
「でも、ガラスだけは、作れないんだ」
ああ、わたしはもう、ずっと以前に会っていたんだ――五億の鈴のひとつに。
なれるだろうか。たったひとつに。望まれるひとつに。
そして、ここでまた知るのだ――もう、ひとつになっているではないか、ということを。

*1:星の砂漠 タルシャス・ナイトのこと