いよいよ、カウンセリング初日。
実を言うと、わたしは『カウンセラー』に接したことが、ほとんどない。なぜなら、カウンセラーは臨床心理士という資格を持っていることが前提だからだ。そういう資格などを無関係にすれば、カウンセリングは(精神科の)主治医や大学の先生がしてくれていた。
…緊張してどうするのだろうか。
今回の先生は、若い女性。というのも、このクリニックは「スタッフは全員女性」を方針としている。患者はいうまでもなく全員女性で、男性はたまに、付き添いさんと書店の配達の人々がちらほら見えるだけだ。医師の性別なんてどうでも良い、という人がいれば、(診察科にかかわらず)どうしても女医が良い、という人もいる。わたしは前者に分類されるのだが、お陰で女医さんとの出会いがほとんどなかった。10人いて、せいぜい2人いるか、いないか、それが、わたしが「女医さんを探したけど邂逅せず」の結果だった。
女性はデリケートにできているし(こう書いて苦笑)、同じ性別であったほうが何かと相談しやすいことも、やはりある。男性恐怖症の気がある女性は、女医さんにしか治してもらえない――ということはないが、女医さんのほうが怖くないというのも、また事実だ。
「あなたのことを話してくれませんか」
…くれませんか、と言われても、話すためにカウンセリングを予約したのだと思う。何から話せば良いのかわからず、それを正直に伝えると「では、赤ちゃんの頃から小学校に上がるまでのことを話してほしい」と言われ、「生まれてから2歳くらいまでは、記憶しようがないのでおぼえてません」とまた正直に伝えてしまい、沈黙させてしまう。
「断片的な記憶はありますけど、もともと体が弱かったようです。肺炎にかかったり、自家中毒も経験しました」
この自家中毒がいつ出たものか不明だが、引っ越しと曾祖母の死が重なっていたのではないだろうか。曾祖母の葬儀で、わたしはいつもなら何ともないはずのジュースを、全部戻してしまったことがある(この後の記憶はない)
小学校に上がった前後から、話は長くなる。この時期が、わたしの健常者としての最後の記憶になるからだ。
神経質な部分以外は、至って普通な子供であったと思う。残っていた連絡帳を見ると、ほぼ毎月のように風邪で休んでいるし、教科書を紛失したり、給食を食べるのが遅かったりという書き込みがあるが、それ以外は何もない。
学年が上がって、たった1日のできごとだった――音を失ったのは。
「あの世って、先生は信じますか?」
先生が本当に信じていたかどうかは、わからないままだ。けれど手前、「信じません」とは言えないだろう。わたしの不思議な体験を聞いて「電波だなあ」と思うか「やっぱりあるんだ」と思うかは、目の前にいるその女性しだいでしかない。
「意識がないあいだ、こんなことがありました。この夢の後はどんどん回復していったようですが、目が醒めたら音がない世界にいました」
明るい春の陽が、個室に差し込んでいた。わたしはやっぱり点滴につながれていて、何日も眠りつづけていたらしい。最初に見たのは父の顔と、白い病室。聞こえなくなっていたから驚いた、とだけ言うと「驚きますよ、だれでも」…そんなものだろうか。
音を失ったことを、哀しむような暇はなかった。学校をどうするか、決めなくてはならなかった。何とか治療で持っていける場所まで戻るために、毎日痛い思いをしなくては、ならなかったから。
「中学に上がるまで、わたしは治療をおとなしく受けたことがありませんでした。
 あんまり暴れるから、脳に障害が残ったのではないかと、後で精神科に連れていかれたこともありました」

わたしの傷は、ここにはないように思う。18のとき、電車の窓から医大を通学のたびに、ぼんやりと見つめていた。決まって桜から梅雨の時期に、見つめていると苦しくなった。
「わたしの耳をかえして」
声にならない叫びは、21になるまで放った。なぜ、こんなどうしようもない過去を気にしていたのかというと、父の一言が大きかったように思う。
「あそこはヤブばっかりだ。おまえの耳を治せなかったんだから」
違う。わたしは音とひきかえに、命を助けてもらったのだ――わたしが聞こえないということをいちばん認めたくなかったのは、ほんとうは父だったのかもしれない。わたしではなく、「わたしだ」と思い込ませる方向へ持っていった父こそが、わたしが障害者になってしまったのだと、現実を見つめたくなかったのかもしれなかった。
このことは、もうほとんど乗り越えてしまった。どんなに最高の治療をしても、わたしは元通りにはなれない。それを知ったときは、世界がモノクロに塗りつぶされてしまって、ろくすっぽ食べずに眠ってばかりいた。大学へも行けなかった。
それでも、乗り越える瞬間はやってくるのだ…
そして、話に出てくる小さなわたしは年齢を重ねていく。両親がいさかった年に。離婚の年に。
話していると涙が止まらないのは、きっとこれがわたしの傷だからだろう。母の悪口を言われながら育ったわたしは、それを真に受けて「自分はどう思うのか」という疑問をほったらかしにしたまま、母を憎んで生きてきた。それは正しいことだと。
父や周囲につられるようにして。
母が憎かった。そして、媚びて生きる浅ましい自分も憎かった。憎むことと恨むことで、わたしは辛うじて『自我』を保っていた。それ以外の問題に直面することは、とても難しかった。
「女性どころか、人間すべてが憎かったのかもしれません」
あの窓から、どれほど飛び降りて楽になりたかったろうか。そうしたら、わたしをいじめた奴らも後悔するだろうか。担任も主治医も両親も親戚も、全員をたったこのひとつの行為で、わたしは攻め立てることが可能だった。それをしなかったのは「死にたくなかった」だけだ。3階なんかじゃ死ねない。死ぬなら少し歩いた場所にある市営住宅だ。
「ずっと死にたかった」
死こそが消滅の究極だと、思っていた、わたしの10代――
「わたしはきっと、自分を愛してなんていません」
…なぜ、先生までが泣きそうな顔をしているんだろう。
「今でも、死にたくなるときはありますか?」
「今は、生きることに対して積極的ではありませんが、かといって死を望んでいるわけでもないようです」
自分のことをひとごとのように話してしまうのは、どうやらわたしの癖らしい。


最後に、わたしは子供に戻ったようになった。紙と鉛筆を渡されたからだ。
「木は震災のときに描いたことがあるけど、人と家を描くのは、久しぶり」
…ただ、人は描いたものの、羽を描いてしまったので、人ではなくなってしまった。「人じゃないじゃん」というツッコミを、自分で書き入れておいた。「羽が好きだから」と。
真ん中にぽつんと描くのは、苦手だ。紙の上から下まで何かを描き込んでいくため、話していた時間と同じくらいの時間を、絵3枚にかけてしまったかもしれない。
「絵、上手ですね」
「漫画とか好きですから」
後ろを向いてラッパを吹く天使の絵の周囲は、雲と夜景で埋まった。