この日は、奈良・飛鳥へ。
前夜ほとんど寝ていないが、そのまま出かける。眠くなれば車で眠れば良い――助手席とは、何とも楽なものだ。寝不足とストレスで、体調はあまり思わしくないものの、ストレスなら出かければマシになる。
ところが、わたしはこの日、すでに離人の症状が出始めていたため、「自分が奈良へ行った」という実感はきわめて薄く、淡い。作らないよりは良い顔を作って(化粧して)いても、自分の顔をいじっているという感覚どころか、鏡の中に居る女性が自分だという感じも希薄になっていた。


まず向かったのは、新しくできた『奈良県立万葉文化館』という建物だ。
現地講議の当時とはすっかり風景が変わってしまい、駐車場に車を入れると、そこが前に訪れた場所だということすら、わからなくなってしまった。先生たちは、そこまで知っていたのか知らないが、「わたしは、こういう建物は東京だの九州だの、奈良に来られない人々のために建てれば良いと思っているので、建設には反対です」と言っていたことを、父に向かっていたく熱心に話しながら建物内部を進むと、そこには「両陛下御行幸」とかいう写真があり、どこかで見たような顔の紳士が立っていた。
「…どこかで見たんだけど…」
そりゃそうだ。通ってた大学の先生が館長なんだから。
しかし、わたしは似ていない人を「似ている」と言い、似ている人に気づかないという、ある意味視覚的なものにとても弱い人間なので、自信がもてずに「どこかで見た感じがするけれど、テレビか何かで見ただけかも」とだけ思っていた。
見たも何も入学直後に会ったことがある*1ではないか…
お土産コーナーへ行くと、なるほど著作が多い。理由は、その先生が館長だったからだ。万葉文化館の建設に反対したのは、国文科の先生たちだ。その頃、美学科には現地講議がなかったため、国文科の学生だけが参加していて、わたしはその一員。次の現地講議から美学の学生が入ってきて、脱落者が増えたのは、これでもかとおぼえている。
なぜ美学の学生が現地講議に入るようになったのかというと、学芸員養成のためと言ってしまえばそれまでだが、みんなそれぞれ奈良を愛する気持ちは、同じはずなのにかけ離れてしまっていた>美学科の学生は一時休憩後に全員脱落
先生も、奈良を愛している人だ。愛していなければ、授業のときに、廊下ですれ違ったときに、たまたま帰り道が一緒になったときに、あんなに活き活きとした瞳はしないと、わたしは知っている(後で先生に訊くと「帰り道でまで授業内容にさらに入ってきた学生は、あなたぐらいなもの」と言われた)
史実より深いところに封印されたままの真実を追求しようとする先生も、あくまでも万葉美を愛するに徹した先生も、遺跡を眺めて遠い過去に想いをはせたわたしも、みんな奈良をそれぞれ愛していて、誰がいちばん愛しているかなんてことは比べられない。ものぐさなわたしでさえ、もう大学と関係なくなってしまったのちも、何とかして万葉の研究をし続けたいとあがいて、結局、現在は個人的に奈良を愛し、見つめるに至っている。
誰もが、この悠久の過去に在った都を愛している。それだけだ。
ただひとつ言わせていただけるなら、食事、高い割に美味しくないです(鬼)
お土産コーナーももっと充実させたほうが良いのではないかと思うので(これ以上は直接伝えるに限る。以下略…)



ふらふらしながら、飛鳥寺まで歩く。
車は文化館に停めているままなので、また戻ってこなくては、まさに「自宅まで戻れない」という状態だ。
決して体調は良くはなく、ふらつきなどもするが、魂が抜けてしまったようにして歩く。これこそ「あくがる」状態だなー、なんて呟いて、ただ歩く。
現地講議のあの光景は、二度と戻らない。今度は、何の肩書きももたないわたしが、父に遺跡の説明をして歩いていく。離人のせいで、自分があれほどに焦がれた明日香村に立っていること、見て歩いていることすらも、ファインダーを通したようにしか感じられなくて、それがまたわたしのジレンマとなる。
とはいえ、離人の症状が出たのは初めてではない。そのうち元に戻ってくれるのを待つしかない。知っているからこそ、なおさらさいなまれるけれど、焦ってもどうしようもないのだからと言い聞かせ、たくさんの人々とすれ違いながら、石舞台古墳まで歩き通す。

ここだけが、何も変わらずに在る。
石舞台をはじめて訪れたのは、中学の頃だ。そして、高校、大学、今回と、飛鳥へは4回来たことになる。
何も変わらない。
変わったのは、わたしだ…わたし、そのものだ。
遺跡の真横に、できていた建物。そこの館長になった先生。
学校の方針で、消えていくしかない国文科。わたしの恩師。友達。
止まっていたはずの時間が飛鳥で動き出したのを、わたしはかすかに、感じた。

*1:しかも選択科目