昨今、夫婦が離婚することは、別段珍しいことではない。
ただ、子はそれを納得しがたいものと受け止めるだろう。夫婦の問題と親子の問題が、家族の問題と兄弟の問題は別であるように、違うものとはいえ、夫婦が別れることは、親子の絆にヒビを入れることがある(不思議なことに、夫婦にヒビが入っていなくても、親子に既にヒビが入る場合もある)
親不孝な娘は、今年は何もしていない。わたしにとって長いあいだ、『母の日』なんていうのは、しあわせな子だけができるイベントだった。なぜなら、わたしは母親を憎んでいたからだ。嫌っては、いない。愛していたから、愛してほしかったから、なおさら憎んだ。
今となっては、なんと乳臭い真似をしていたのかと苦笑するばかりだが、憎しみが人を殺せるなら、わたしは母を殺して自分も死んでいただろうし、事実、成熟を拒否したわたしは、拒食症という緩慢な自死へと自分を無意識に追いやった。心だけでなく、魂がすり切れるほどに、わたしは「おとな」を憎んだ。「女」も憎んだ。
何より、自分をいちばん憎んだ。
誰よりも、何よりも、人を嫌った。それでも、わたしは自分以外の何にもなることは、できなかった(だから苦しかった、と書いたことがある)し、人であることを捨て去ることも、種族的には不可能である――人、人というけれど、歴史をひもとくと、障害をもつ人間が「人間らしく」扱われることは少ない(格上げされても格下げされても、人間としてえがかれることそのものがない)。『健康で文化的な生活』が人間らしい生き方であるのなら、障害の有無にかかわらず、それが突如として理不尽にも奪われることが、世界にはあふれている。
どこに、誰の子として生まれるか、新しい命は決められない。

海よりも深く (3) (小学館文庫)

海よりも深く (3) (小学館文庫)

「だれの子供に生まれて、どんな育てられ方をするかは、子供には選べない。
 だからこそ、どんな人生を生きたいか、どんな人間になりたいか、
 自分で選びとっていくしかない」
《海よりも深く》には、そんなモノローグが含まれている。主人公の眠子は、極度の男アレルギー。彼女の意識があるときに触れた異性は、父親でも跳ね飛ばされてしまうし、それで(異性に/眠子がではない)倒れられてはたまらない。ゆえに、恋愛をひとつもできずに成人するが、このモノローグが出てくる頃、眠子はすでに母親になっている。
自分が愛情に飢えて育ったなら、そんな思いを子供にさせたくないのは当然で、たっぷり愛して、子供の立場に立って…そんなことを、眠子はある事件の後に、夫となった男性と語り合うのだが、「いちばん大事な親の役目は、子供を巣立たせること」――と言うシーンがある。
「そんな親に、なれるかしら」
「一緒に育っていけばいい」

確かに、生まれる場所も、時間も、時代もむろん、選べない。そのかわり、人生を選び取る可能性だけ(ではないかもしれないが)は、有限ではあるけれど、無限に近いほど存在する。
わたしは、父と暮らし、普通校に通い、退学し、闘病を選んだ。
生きたかったからだ。死にたくなかったからだ。
本当に生きたくないのなら、あのまま倒れていれば良かった。
それでも今、わたしはこうして、生きている。
両親がやりたくてもできなかったことを、わたしがやりたいと思ったから。
憎むことすら、愛すらも、わたしは選べる。
わたしは、とてもしあわせな子供なのかもしれない。


余談/離婚するとき、母はいくつかの漫画を置いていったが、その中に吉村明美の作品(当時は《麒麟館グラフィティー》)があった。わたしが吉村氏の著作を手にするチャンスをたくさん与えてくれる*1なんて、粋な置き土産もしてくれるものである。

*1:知人は《薔薇のために》を薦めてくれた