先日の件を打ち明けると、
「いよいよ来たねー」
そう返された。
先日の件、というのは、なぜか血縁上叔母にあたらないはずのわたしが「おばちゃん」と言われたことだが、あれくらいの子って、血縁関係なんてどうでも良いんだろうなぁ。とりあえず、自分の母親より年上っぽいから「おばちゃん」と呼ぼう!! とか…
子供は天使だ。そして悪魔でもあると、友達を見ていてつくづく思う。

赤ちゃんには、生まれたときからすでに個性がある。ひとつの生命体なのだから、当然といえば当然だ。お腹にいるときからとっくに個性はできている、と言ったほうが正しいのかもしれない。赤ちゃんをやるのは大変だが(だってお腹から出てくるんだし)、赤ちゃんを生んで育てるのはもっともっともっともっと、その何千倍も大変だ。10ヶ月頑張ったー、と思いきや、今度は20年、場合によってはそれ以上面倒をみていかねばならないのだ。
20年では済まなかったわたしは、いったいあと何年親に面倒をみてもらえば良いんだろう…と、さらにげんなりしてしまう。自爆。
自然? と、以前より赤ちゃんという存在に視線が行くようになった。
わたしの子供嫌いは「苦手だから」というレベルのものではなく、わたしそのものが子供で時間を止めてしまっているため、遊ぶことに関しては問題がないが、面倒をみたり、教えたり叱ったりすることはできない。
妹に近寄れなかったのは、複雑な家庭というものが原因でもあっただろうが、複雑であればなおのこと、姉は近くに在らねばならない。いつか、両親にさえ打ち明けにくいことができたとき、あの子は誰にその相談をすれば良いのだろう…
「躾や教育は親がするから、あなたは気にしなくても」
なんて主治医に言われても、ボンヤリとしか理解できない。
それ以前に、わたしはわたしの生を生きているだろうか?
したいことより、しなくてはならないことを探してはいないか?


誰よりもはやく、おとなになりたくて、なりたくなかった。
誰よりもはやく、しがらみをふりほどいて、何かに縛られたかった。
誰よりもはやく、自分の死にざまを決めていた。生きるよりも先に――
矛盾にまみれた生き方をしてきた。それを、これからもするつもりなら、わたしの生は空虚なものになるだろう。それで何が書けるというのだろうか? 書きたいから生きるのか。生きたいから書くのか。もっと別のものを求めて、生きて書いているのか――おそらく、そのどれもが、今のわたしには当てはまる。
昔のプロットノートを見て、わたしはこんなことを考えながらこのノートを書いていたのだろうか? …そんな疑問をいだいた。文字や絵や数字のどこにも、そんな逼迫した感情はなく(もっとも、他人から見ればそうではないかもしれない)、ただ「わたしはこういうものを書きたいの」といった執筆欲しかないように、一見感じられる。その後に「なぜなら」と付け加えることが必要なら、わたしは当時、自分が苦しんでいた何かに気づいたかもしれないが。

一度マイナスになった磁石は、プラスになることはないだろう。反発するものは遠ざかり、惹きつけられるものはどんどん近づいてしまう。適当な距離は磁石にでもわかることなのに、わたしはその距離を把握しておらず、結果としてトラブルをかかえる羽目に陥ったり、それがもとで人が離れていったりしている。
原因はこういう場合、わたしにある。わたしだけにあるものではないとわかったとき、わたしは人がとても怖くなった。
恐ろしくなった――
「君はプラスとマイナスというより、ずっと電気が流れてる電磁石」
たまには電池を外してやらないと、消耗して疲れるよ。
いつかそう言ったのは、理系な彼氏。
この彼氏、おそらくわたしの電池を外せるものなら、外してしまいたいだろう。だけど、そんなことはしない。少しいじってしまえば、わたしはちっとも反応しなくなるし、適当な磁力をもつことになるけれど、彼氏はあえて、それをしない。
少し離れた場所から見つめている。
「…迷惑だ」
と、よくわからない理由でわたしに近寄ってくる男性を、しかめつらしながら眺めている。わたしの名前は「やたらと長男長女にしか縁がない画数」なのだそうだ。それを引いても「余裕があるように解釈している」人物が寄り掛かってくるから。