わたしは、あるメーリングリストに登録している。手話サークルだったり、ドナーズネットだったり、自分が関心をもつ分野であることは言うまでもないのだが、問題はそこで発生した。
とある人が脱線事故について話し、「法則に従えば、死なずにすんだ」…「自分は第六感が鋭いゆえ、還暦を過ぎても生きている。弟は昔事故で死んでいるが」…「下等な生物ほど、こういうものは鋭い。現代では高等生物においては退化している感覚だ」…というような内容を書いたためだ。
こういうことを、お悔やみの言葉もなく(あったとしても)書けば、どのような事態になるか、そんなもの、仮にも教職なんだろうから理解しているんじゃないだろうか? それとも、単にわたしがそういうことに過敏なのか? と、連日の報道でまわらなくなった頭で、自分なり考えてみた。考えてみたが、理解できたことはひとつだけ「死者を冒涜しているとしか、思えない」ということだ。
その人物がどうなったかというと、わたしを含めて数人にぶっ叩かれた。
最初に自分から事故の話を持ち出しておきながら、最後にぶっ叩いたのは偶然にもわたしだったが、「うちの学校でも学生が亡くなっている。あまりの怒りと哀しみでつい書いてしまった。もう、思い出すと哀しくてたまらないので、今後このことは書きたくない」…というコメントが「深くお詫び申し上げます」という文章に添えられていた。
数人にぶっ叩かれたショックなのか、トドメが効いたのか、それとも最悪なことに死を言い訳に利用しているかは、不明だ(悼むことと、人の死を引き合いに出して議論をうちどめにすることは、全然違うからである)。それでも、いやしくも学問をこころざす人間が書くようなことではないのではないか? 人として、言わねばならぬこと、言ってはならぬことはあるのではないか? と、わたしのなかで疑問が頭をもたげてくる。
そして、さらなる騒動はこれから数日後に起こった。
リストに登録している別の人間が「情けない。目くそ鼻くその騒ぎとしか思えない」と、こともあろうに、傍観者でしかなかった立場でありながら、自分が主催しているメールマガジンにそのことを書いたというのだ。
キレた。
「傍観者という安全圏から、さかしらぶって発言するとは何事か。生命や死者への尊厳について論議することが、そんなにも軽々しい問題なのか。ちゃんと読みもしないで、野次馬と何も変わらないのを意識しているのか」
わたしも、事故そのものに関しては傍観者にしか過ぎない。あの日からほんの少し前まで、PCにも携帯にも、安否確認のメールが途切れなかった。どこまでいっても、わたしは無事で、当事者ではない。それでも「死者を冒涜する発言は、どんなステイタスにあっても赦せない」と、あえて言葉を刃にしてまで返したわたしたちの文章を「おまえら、まだやってんの?」と、ハエのようにたかってきたこの愚か者を見過ごすのは、人として、どうなのか。
人としてどうなのか?
そう考える前にキレたのは、そう、わたしが自分の耳を侮辱されたとき以来だ。
「目くそ鼻くそでけっこうだ。あんたみたいなのと一緒にされたくない!!」
そいつの返事の内容は「悪意を感じたので、あんたたちのメールは読んでいない」というものだが、そう言えるのは最後まで目を通した人間だけだ。冒頭に挿入される広告で、何がわかるというのだろう。さらに言えば、悪意をこちらから感じるというのなら、自分でぶちまけた悪意が単に跳ね返ってきているだけだ。


結論は、早く出た。
「駄目です。この人には日本語が通じません。
 悔しくてたまらないけど、これが今の日本のガキです」



わたしは、バカは嫌いだ。
バカをやる人間も、「バカだし」と自分を笑い飛ばす人間も、わたしはむしろ好ましく感じる。しかし、そういう人はまっすぐな人であって、「バカなことやってますが」と言いながらも、真剣に、はた目にはつまらないことも理解しようとし、誠意をもって答えてくれる。それがあだとなって「バカを見た」と言うのだ。しかし、そういった人々の存在は、どれほど貴重であろうか。
わたしは、バカは嫌いである。
勉強ができないから、バカなのではない。知識がないから、バカなのでもない。障害があるから、バカだというのでは、無論ない。
相手を理解しようとしないのが、バカなのだ。
完全に理解することなんて、双子でも親子でも、どれほど愛している人でも、無理だ。それはしかたがないが、理解したい、理解しよう、という姿勢は、尊敬に値する。「難しいが理解したい。理解に努力したい」という気持ちは、国境は言うまでもなく、人種や世代を越えて尊重されるものであり、また、わたしが敬意を示すものでもある。生きているうちに無理な問題でも、彼ら・彼女らの気持ちは受け継がれていくこともあり、ときには、残念ながら途切れることもあるだろう。
だが、そのような人々こそが、この我々の生きる世界を築き上げていくのだ。
それを「しようとしない」「放棄している」のを、バカとわたしは呼んでいる。