昨日から食欲が落ちてきて、倦怠感が消えない。減薬開始から2週間近くになるが、上手に寝つける確率は低い。日曜あたりから不安発作が出始めたこともあり、また眠る前にトレドミンを入れる。本来なら毎食後に飲んだほうが良いものなのだろうが、そうすると昼間かなり眠くなる(少し、のはずが、かなり、になった)
午後にカウンセリング前の診察予約が入っているが、動悸がしてふらつくので、デパス服用。減薬も不調の一因だろうが、季節柄だとか、福知山線の震災フラッシュバックだとかも大きいだろう。実際に現場を目撃したり、事故に遭遇したり、救助にあたった人々のショックのほうがわたしなんかよりずっと大きいのに、情けない。
歩いていけるかどうかわからないので、タクシーで行く。


クリニックは比較的空いていた。わたしの予約が入っている分、誰かの予約が抜けているからだ。エゴグラムだけまだ記入していない旨を告げ、ボールペンを借りて書き込んでいく。特徴のある検査用紙は、やったことのある人ならば遠目にでもわかるだろう。横に人がいるのも構わず、さっさと書き込んでいく。
4つ全部のテストを手渡したところで診察となったが、わたしはひとつだけ、まだところどころ書き込んでいないテストを残していた。質問された内容が理解できなかったのだ。
「脈がとびますか」というのは、心臓のことではない。手首やら足首やらで脈拍がとびますか、という質問だが、わたしは自分の脈拍を自分ではかったことがない。「ひどい神経衰弱になったことがありますか」などと紙に書いてあっても、『神経衰弱』はどう考えても、犯罪者が酌量の理由として用いる『耗弱』ではないだろう。では何なのか。広辞苑で調べて書こうとしたと主治医に言うと、また変な表情をされた。
「よく、気がきかないと言われることがありますか」…気がきかないというのは、一体どのような状態をさすのだろうか。人を見ればわかるが、自分のことはよくわからない。言われたことはなきにしもあらず、でありながらも「よく」言われたわけではないので、また戸惑って記入ができない。
「これはあくまでも、自覚であって、人から見たあなたがどうなのか、というテストじゃないですよ」
…なんてことを言われても、「…わたし、これ、どうだったっけ?」と、考えて疲れてしまって、最後に書きやすくて馴染みの深い(深くなっても困るが)エゴグラムが残った、という理屈だ。主治医に「このような状態です」と説明されながら、「はい」か「いいえ」を選んでいく。そのあいだにも考えてしまい、はい、とも、いいえ、とも言えなくなって黙り込む状態が何度か続いた。
「直感で、考えずに、感じたことを答えれば良いテストです」
考えることと、感じることは違う。と誰もが言うが、わたしにそういった瞬間はフッと一陣の風が吹き抜けたように訪れるだけなので、どれが「考えたこと」で「感じたこと」なのか、こうやって文章にしても、区別が「自分では」ついていないことのほうがずっと多い。
「考えることと、感じることは違うと言われても、わたしにはあまりわからないのですが」
と、何年も前――少なくとも7年近く前――からかかえている疑問を素直に出すと、ふたたび変な顔に遭遇した。こんな質問をされたことって、あったかしら? と言いたげな表情だ。どうも、わたしはどこでも『変わったことを質問する人』のようだ。
「でも、次のカウンセリングまでには、このテストの答えは多少変わってると思いますよ」
それは、医学生の方にも言われたことがあります。とまでは言わず、黙っていた。言えば、また主治医の変な顔が見られるということは、わかりきってはいたけれど、別にその『変な表情』を見たい確信犯めいたものは全くない。


変な表情だの変な顔だの、主治医のことをさんざんに書いているが、この女医さん、スレンダー美人である。村山由佳の《天使の卵 エンジェルス・エッグ》に出てくる五堂春妃のような感じでは全くないのだが(すみません)、本当にこの本を持ち歩いて読むようになってから、不思議なことばかり起きている。
心の傷。精神の病。10年という歳月。誰かを失うということ。春という季節――ずっと言いたくて、それでも言えなかったこと。


婦人科の次に訪れた皮膚科で読みながら、あやうく涙をボトボト落としそうになった。わたしは感受性が強すぎるため、こういう本を読むと道ばただろうが、電車だろうが、病院だろうが、はたまた友達や彼氏の家だろうが、わんわん泣き出してしまったりして、色んな人に心配をかけている。
なぜ、感受性が人よりも強いのか。それがどうして制御できないのか。28年生きてきて、感受性の強さが並でないことを知ったのは、指摘を受けた26のとき。それまでわたしは、誰もが外ではそういう本を読まないのだと思っていたが実際は違っていて、「外で読んでいるから泣かない」のであって、ある程度の制御ができるそうなのだ。なのに、わたしときたら涙ぐんでしまい、これでは家電コーナーにへばりついて涙する、冬ソナマニアとなんら変わらないじゃないか…
涙腺がゆるんで「花粉症?」と勘違いされて鼻水をかんでいると、診察の順番が来て慌てる。




今日はホントに何だかわからないことばかりで、発作が出てタクシーでクリニックへ行こうとしたら、いきなり左目が痛くなって感動してもいないのに涙が出て、ようやくつかまえたタクシーの座席で鏡を見てみたら、抜けたまつげが眼球にへばりついている。
…道理で痛くて、ものが見えにくいわけだ。
わたしの目も虹彩も、どこの眼科からも「大きいよね」と言われていたが、自覚がなかった。携帯を打っているときに液晶の光が淡くなって、携帯電話を凝視している自分の顔がハッキリと見えた昨日、「あ、ホント大きいわ」と気づいたくらいだ。最近では『黒目の部分を大きく見せるコンタクトレンズ』なんて出ているが、そういうものを眼球に好んで付着させる人々の気持ちが、わたしには理解できない。
お人形のような目になりたいのだろうか? 目だけで人の顔は変わるもの、とはよく言ったものだが…わたしには、マスカラもアイライナーも必要ではないようだった。母にも販売員のおねえさんにも「要らないのでは」と言われて、それでも引いている女性が圧倒的に多く、引いてみたいが怖くて引けない。友達に借りて引いてみようと思うが、おそらく爆笑か驚嘆――最悪だとひんしゅく――を買うだけだろう。


婦人科と皮膚科では、目はあいにくと診てはもらえない。
何となく財布を覗くと野口先生が2枚しかなく、皮膚科の待合で青ざめた。
(次回支払う羽目に陥った。このときのわたしの表情は、きっと女医さんより変だったろう)
仏滅って、明日なのに。