新聞の見出しは、こうだ。
「生きた 震災の経験」
大声をあげて、笑いたくなった。泣きたくなった。そして、「おまえは何を見ているんだ」とも、叫びたくなった。阪神大震災のときに、福知山線を使っていた人は多い。
忘れたい記憶だらけで、実際「俺やったら、そんな経験したら狂ってるかもしれん…狂ったほうが、ナンボ楽かしれん…」と言われたことは、もう数えきれない。これは災害のみならず、わたしの過去の多くに起因するものだが、確かにわたしは、誰か精神をこなごなにしてくれないだろうかと、泣くことすらできなかった日々を送ったりもした。
そして今、身のうちに病魔を飼いながらも、のうのうと生きさらばえている。
狂わないのではない。わたしが、わたし自身に、狂うことを赦さないだけだ。
わたしは「狂う」という単語を目にするたびに、そう呟いて、自分でもよく理解できない笑みを浮かべることしか、しない。
10年の長さを経るまでに、わたしは親戚を幾人か亡くした。ほとんどの人が震災後に発病しており、震災との因果関係がハッキリしているのは、わたしの知るかぎり1人しかいないが、それでもその人は、震災のときに避難所を追い出されたりしなければ、まだもっと生きられたかもしれない。
それが、わたしが『お役所』を激しく憎む所以だ。
やり直しがきくものと、きかないものがある。
過去は後者にあたり、どんなに頑張っても、あがいても、過去は過去でしかなく、2度とこの手には戻らない。ただ懐かしみ、想い、ときには喜び、哀しみ、そして学び取ることしか、過去に対してできることはない。
わたしは過去にはマイナスの感情をもつことが多いが、プラスの感情もあることも、否定しない。イジメも、両親の諍いも、殴られて育ったこともつらかったが、わたしは決して、1人ではなかったのだから――もう今では連絡を取り合わない人であれど、わたしの友達でいてくれて、遊んでくれたこと、話してくれたこと。それが、わたしのよりどころであり、つらいことがあったときに、還ってゆく場所だ。
新聞は、新潟もスマトラも、福知山も報道した。わたしの発作が再発する原因となった新潟中越地震で、震災の経験が活かされることは、ハッキリ言うと少なかった。災害に対するノウハウを身につけて刻み込んだ人が助けてくれるのを待つのではなく、憶えていなくてはならなかった。被災者しか憶えられないこともあろうが、何度か発行された書物によって、その知識を得、実行することは、できたはずだ。
それをしなかったツケが出てしまったようなものだ。被害に遭った人々がストレスをためるのは早く、入浴も数日できなければ駄目という人もいた。わたしは、震災のときに、1週間以上入浴できなかったことがあるが、新潟は(比べるものではないと理解しつつも)早くそれが解消できたほうだろう。
途上国に旅をしたことのある親友は、半分怒っていた。「自分らの備えもろくにせんと、何が義損金と物資くれ、やねん。俺の行った国は、ハリケーンの被害に遭っても、そんなもんあらへんのや。国が何とかしてくれる、ていうのは傲慢や。自分でできることをせんかった、これはツケや。俺から見たら、あの地震の被災者は先進国の亡者でしか、あらへんわ」――彼がどれほどの被害を震災で受けたかまでは、わたしは知らない。また、彼もわたしが自分から話すまで、傷に触れるようなことは問わない。
それが礼儀だろう。彼なりの。


教訓は活かされねば意味などないに等しく、よって、活かされたとき、それは過去の学習になり、喜ばしく思われるものであるだろう。正直に言えば、わたしは災害の心得など、今後役立ってほしくはない。もう、あんなむごい災害は、起こらないでほしいと願っている。
それでも、ヒトは自然をどうこうするなんて不可能で、万が一そのような状況に陥ったならば、支えあい、生きることを第一とせねばならないだろう。家庭を保つこともできず、自分の身の健やかなることを保つもかなわず、人との関係を築くこともできない人間が、どうして地球レベルの管理ができるのか――それこそ、冒涜だ。
今回の鉄道脱線事故の現場で救助にあたった人々は、震災を咄嗟に思い出し、持てる限りの知識をフル稼動させ、レスキューや自衛隊もそのことを忘れなかった。伊丹市には自衛隊の駐屯地が在り、父の車で出かけたとき、わたしはよく連なって走るジープを見かけた。
自衛隊の在る土地で生まれ育ったこと。
震災で彼・彼女らに助けられたこと。これは、わたしが決して消すことのないだろう、『今のわたし』を構築している過去のひとつだ。

だが。
活かされたのは天災に対してではなく、あきらかに人災に対してである。
このようなことを誰も望まないと、国はわかっていなくてはならなかったのに。
事故は起きてしまったのだ――防ごうとすれば起きなかった、事故は。

そして今、狂おしいほどに悼み、哀しんでいるのは、いったい誰なのか?