わたしは、ひどく恐れていたのだ。今もそれは変わらないだろうが、間違いを犯すということを、たまらなく恐れて――いる。万能な人間なんて存在しないと、頭ではわかっていても、こころは限りなく万能でありたいと願っている。
万能であることが、強く生きていける人間の、証しでもあるかのように。
その傾向は、音を失ってからますます強くなった。もとから持っていた要素が、劣等コンプレックスによって強まってしまったのだ。不完全なものよりも、完全なものを愛したかったし、愛したものが不完全であると、わたしは勝手に(失礼にも)幻滅を味わっていたりした。
こんな人間が孤独になるのは、もはや時間の問題だ。
何より、わたしはわたしを愛せなかった。誰よりも何よりも、不完全な、この、わたしを。


今でも、自分を愛しているかと訊かれると、
「愛していません」
そう、答える。
愛せないだけなのか、愛する努力を放棄してしまったのか、
そのどちらでも、あるのだろう。
では、家族や友、恋人を愛していないかと言われれば、そうでもない。わたしは誰かを愛することはできても、自分を愛することはできない。誰かに完璧を求めても、所詮は人間だという理由でそれは無理だから、完璧なんて無理だから、でもその時点でもう愛してしまっているから、仕方ないのだと笑むことはできても。
自分には、どこまでも完璧を求めてしまう。
それが、この病の一因であるというのに。

完璧で完全なものだけを愛して、生きていくのは、楽なことではないだろう。
なぜなら、そのようなものは存在しないからだ。
どれだけ整った絵をみても、何も感じないように、魂の奥底では、不完全さを愛したいと渇望しているのかもしれない。