精神科へ行くのは、いつも火曜日。早く行かなくてはならないとわかってはいても、体も頭もゆっくりとしか動いてくれない。なぜだか、途中で寄り道もしてしまう。この癖は通院を始めて2年頃で出てきたもので、寄り道をする・しないに限らず、診察終了1時間前に家を出るようになっている。
寄り道中に《西の善き魔女 3》を購入。原作では文庫の3巻に当たり、まさに桃川先生が2巻で予告しておられたように「女の園」だ。文庫で読むよりも質素な制服と、きらびやかな衣装。何よりわたしは、原作のほうでエヴァンジェリンという少女に腰をぬかしてしまった…むろん漫画にも彼女は登場するが、エフェメリスもさることながら、彼女の書いた小説を読みたいと本気で思った読者は――わたしだけではない…と思いたい(爆)

クリニックでは、やはり最後の患者といっても差し支えはなさそうだった。製薬会社の人(最初にはち合わせしたときにパキシルの箱をかかえていたので、パキシルさん」という不名誉な呼び名がつけられている)が話していると、診察ではないのと、患者が居ないのとでドアが開いている。
色々な事情で、診察を受けるのがどうしても遅くなってしまう人がいれば、わたしのように「特にこれといった理由はないはずなのに」遅くなってしまう人もいる。顔が覚えられないので(玄関先にある靴でどの患者さんが来ているのか、判別する)、わたしは「誰が」「どんな病気で」「何日おきに受診しているのか」に、ひどく鈍い。事実、話して仲良くなれるわけでもないので、知らなくても良いことばかりだが。
診察室に入って、最初に何を言ったのかは忘れてしまった。このときもわたしはボンヤリしており――薬のせいなのか、それとも疲れているのか、喰わずの低血糖だったのか不明――体も頭も、何だかふわふわしているような感じがして、まぶたが少し重かった。座っていると血圧が下がってくる体質だから、それのせいだろうか?
昼間のトレドミンで眠気を催してしまうこと、それは前の診察で伝えていたから、昼間はそのまま飲んでいた。すると、やはり1時間後に眠気が来て、1〜2時間の睡眠を体が欲するが、脳はキッチリ起きていて、うっかり眠ろうものなら、わたしはさまざまな悪夢で悲鳴をあげて飛び起きる羽目になる。
最近は診察でもボンヤリすることが多くなってきて、話にもまとまりがない自覚すらある(自覚比でしかないが)。主治医に何度も同じ質問をしているのを知り、このクリニックに来てはじめて「筆談に使った紙をもらっていってもいいですか?」と訊いた。思い起こせば前のクリニックでも、わたしはメモ以外のものをもらって帰ったことがなかった。「最近記憶がおぼろで、たぶん、同じ質問を何度かしてしまっていると思うので」…と言ってみたが、もともと主治医は筆談用紙をそのとき限りのものにしているわたしに「?」という一種の疑問を感じていたかもしれない。
「ここへ来てから、ずっと1週間おきの診察ですが、わたしから見ると、あなたはとても治療に対して前向きで、几帳面でまめだという感じがします」
…まめで几帳面? と『そんなことは誰からも言われたことがない』という表情がそのまま出てしまい、筆談は続く。
「そういった姿勢は偉いと思うけど、あなたは入院したり、他のクリニックへも行かなくてはならない病気があって、おそらくそれらの治療にも、とても几帳面に挑んでいるのでしょう。しかし、それでは時間に余裕がなくなり、焦りや多忙さから生活にうるおいがなくなってしまうこともあります」
ドライ肌のみならず、ドライ生活。そんなのは梅雨の時期だけで良い。
「あなたは意識していないけれど、無意識で治療に対して疲れを感じているのでは?」
不登校も、これと同じ原理になる。几帳面でまめか、と言われれば当てはまる部分もあり、たとえば日記なら日付更新ギリギリに書いたり、流石に今は休業中なものの、オンラインゲームなら店を出して毎日お客の対応をする。ものを書くためにネタノートをいつも持ち歩いて、家でも思い出すたびに書きとめる。そして一番思い当たるのは「ペンはいつも同じでないと厭」(ボールペンが嫌い)というのと、「ノートの字が汚いから最初から書き直してしまっていたこと」だ。
「几帳面と真面目は違います。もしかしたら、ずる賢く、自分にとって良いように生きる人を真面目と言うのかもしれません。それは悪い意味ではなく、自分を疲れさせない方法を知っていて使える人が、真面目であるという意味です」
わたしは。
真面目に生きたいのだろうか。それとも…
どう生きたいのかすら、見えてはきていない現実を突きつけられた気がした。
「わたしは、あなたを見ていると、診察は2週間に1度でもいいと思います。落ち着いていますから。もちろん不安なときや、何かあったときは、いつでもいらしてください」
そして薬は、2週間分になった。
尾瀬羽さん。人間ってね、どうにかなるものがなくなってからでも、それからでも遅くないときも、あるんですよ。どうにかなるものがなくなってから医師のところへ来ても、手遅れだということはないと、わたしはそう思います」

せんせいは。
きっと、わたしよりも、たくさんのものをみていきている。
あたりまえだ。
だって、おとうさんよりもとしうえの、しかもおいしゃさんだ。
そして――



その晩、重たい買い物をかついで歩きながら、感じることと思うこと、考えることの違いが、少しだけ見えたような気がした。
「…もし、その人間にしかない能力や才能というものがあるのなら、わたしはいつもそれを最大限に使えるようになりたい。
 それは、いつも出しっ放しの水道のようなものではなく、必要なときに最大限のちからを発揮できるように、自分を御することから始める」
長く考えすぎているうちのことなのか、そこまではわからなかった。それでもわたしは、それを「考えた」ことではなく、「思った」ことだと認識した。

雨粒に打たれながら。