本日は精神科へ。
「今の眠剤も極量ですので」とさりげない減薬を主治医ににおわされてしまう。ドラール15、ハルシオン2錠、ユーロジン2、セロクエル25…というのが現在の処方だが、わたしとしてはそれが「ちょっと飲み過ぎじゃないか」とは思えなかった。だってドラールハルシオンもホントは割って飲んでるんだもん!! 「半分に割っていてもやめなくてはいけませんか」と、悪夢をつらつらとみることが少し増えたわたしは「今は(手術のこともあり)減らせる自信がありません」と返しておいた。
「具合が良いときに、セロクエルを辞めてみませんか?」
…わたしが断る理由はない。
なぜなら、最近は昼間も奇妙に眠く、去年の末から飲んでいたトレドミンが効いているのがわかるのだが、いかんせん眠い。さすがに昔のようにエスカレーターで一瞬意識を吹っ飛ばす*1ようなものではないが、医大で居眠りしてしまったように、じっとしていると眠気に勝てない。ドラールを中止する理由もなくなったため、軽いセロクエルから始めることになる。


悪夢とわたしが定義する内容は、いつもお決まりのパターンだ。必ずわたしは父か母と言い争っており、わたしは「誰になっているのか」夢ではわからないが、「死ね!!」「殺してやる!!」と叫んで、殴りかかろうとした手が壁などにぶつかって、ハッと意識を取り戻す。ひどくうなされていたのか、普段なら気づかないほどしか出ない寝汗をびっしょりかいていて、知らないうちにあちこちにアザができている。
いつか、野戦病院や戦場で医師や軍人になる夢をみて「怖くて気持ち悪かった」とネット日記に書いていたことがあるが、わたしは戦場を知らない。よって、生々しくはあっても映画のフィルムか何かのような感じが強いが、両親が出てくる夢はそれ以上にリアルだ。現実と区別がつかないほどリアルで、そんな夢をみた日には、両親のことを考えたくなくなる。
「無意識の層では、かなりの傷とわだかまりがある」
…そうだ。主治医いわく。それは、そうだろう。もう15年も経過しているのに、わたしはこんな夢をみてはうなされ、暴れてわめき、自分の叫びで飛び起きる。もしも、母から便りがあったときに「あなたなんか知らない、妹も知らない」と突き放していたなら、こんなことにはならなかったのだろうか。
…それでも、やはりこんな夢をみただろう。妹も、自分の父親と担任が怒鳴りあう夢をみて、起きては泣くのだろうか…? 「おねえちゃん、次いつあえるの?」と、別れ際にべそをかいたように。




しかし、よく考えたら、わたしに両親を責める権利などないのだ。
わたしは母を選び、父を捨てた。虐待があったのだから、母親を選ぶのは当然だったのかもしれない。それでも、あのときの父の顔が忘れられない。連れて行ってもらえなかったわたしは、父に殴られながら母を憎んだ。
この年齢に達して理解したが、大人の世界からみると、わたしが母についていくことはとても不利だった。今でも、親が離婚していると就職でさえガタガタ言われる。ましてや経済力は(家にもよるが)父のほうが強く、母についていけば進学も普通にできたか、わからない。

公立の中学に進み、公立の高校に進み、大学にも進むこと。それが世間の「ふつう」だったし、わたしの「あたりまえ」だった。母が連れて行ってくれたとしても、借金しながらバイトしながらしか進学は無理だっただろうし、いずれ発病してもろくに医者に行けずじまいで、手術もできなかっただろう。普通の女の子のように恋をして、誰かを愛して生きていけても。
もっとも、わたしの性格からすると、母と一緒でも「しあわせ」には遠かったと思われる。音のないことを不幸と思ったことはない。静かな世界に生きることを、哀しいと感じたこともない。ジレンマならあったけど、それは誰もが、聞こえていても生きている限り何かのかたちで現れ、乗り越えねばならないものであるから、単にわたしは「聞こえないからこんなかたちのハードルが出てくるだけだ」と、そうとらえていた。


わたしは、父を選んでも母を選んでも、そのどちらに養われても、こころにぽっかりと穴をあけてしまって、いつかこの病気になっていたと思う。理解のある母になら「頭がおかしい」と言われなくて済んだかもしれないが、ひとつだけ得た答えがある。
「高校んときの恩師がいなきゃ、きっと絶望して死んでたなぁ。進学できてても」
恩師というよりは、あの人々は恩人というべきかもしれない。社会で成功することも大切だろう。特にわたしのことを考えれば、それはとても喜んでもらえるだろう。けれど、わたしは笑顔を浮かべて、こころの底からしあわせだと言えるときが、その人々への恩返しになると知っている。


先生、あのとき、助けてくれて、ありがとう。なんとか生きていられます。

*1:ラボナ服用中の出来事