文字を大きくしてみた。とはいえ、大きくしたのは実際は25日、1日ズレで日記を書いてるものだから…「今日あったこと」と「昨日あったこと」を書くのはやはり違っていて、1日経つたびに冷静になったり、なれなかったり。
母から(携帯だが)メールが届いた。「インフルエンザと拒食症で痩せたけど生きてるよ」なんて親不孝きわまりない文章と最近の画像を添えたものの、返事が2週間ほどなかった。もっとも、数ヶ月平気で返事をしない娘なものだから、母もそういうところはあまり気にしていないらしい。まあ、元気でいてくれればいいかなー。みたいな。昔の母からは、そんな姿は想像もつかない。
妹が修了式を終えた後のメールらしく、まだ学校で、これから懇談会をやるという内容だった。去年末まで、わたしは妹は元気に中学に行っていると思っていたが、それは間違いだった。妹は入学直後から不登校の兆候をみせ、2学期からは登校できなくなった。勉強は、さいわい卒業した小学校に良い先生がいて、妹のように何らかの事情で登校できない子供たちに、学習スペースを提供しているのであまり遅れてもいないようだ。
話を詳しく聞いてみると、妹だけではなく、妹の友達も、親しくなった子すら不登校になってしまっている、という悲惨な状態だった。問題は妹のクラス担任が、子供のこころを不用意に傷つけるような駄目教師であったということ、諫言が右左のバカだった、ということ。かなりの父兄に嫌われているようだが、一番キツいお灸を据えたのは、やはり母だった。
わたしが「ろう学校へ行くか、もとの学校へ行くか」というときに強かったのも母で、「受け入れ体制が…」「障害児学級には、知的障害の子しか…」と渋る学校側を説き伏せたのも、母だった。病気持ちの割にはアクティブでバイタリティに富んでおり(もとより、子供のことで熱くならない親は居ないだろう)、道徳的なことになるとヒートアップする。こういうところは、わたしは母に似て、一息ついたところで寝込んでしまうのも、やっぱり母に似ている。祖母は母をさらに強力にしたような人で、もう70も過ぎているのに、躾の悪い子供は容赦なく走って追いかけ叱るような人だ。
…わたしは、父方より母方の血を濃く受け継いだのかもしれない。

妹がちゃんと食事ができたりしているかどうか、微妙な年齢なので心配だ。母はわたしの病気のことを全部知っているから、あえてわたしが不安になるような話題は避けているが、伝えなくてはならないことは伝える人だ。自分が不治の病であることも。モルヒネを使わなくてはならない時期もあったことも。
不登校を経験したことがあるわたしは、最初に哀しくなった。そして腹立たしくなった。悔しかった。涙があふれて止まらなかった。賢い娘であるどころか、姉として妹を守ってやることもできない。それのみか、過去のトラウマで発作を起こしてしまったほどだ――今だから言えるが、わたしは中学時代に男性教師に体操着のお尻を叩かれるという、いわゆる「セクハラ」を受けたことがある。
あんなクズみたいなやつが聖職者で、わたしも妹も滅茶滅茶にしようとしている。信じられなかったし、信じたくなかった。自分の顔を鏡で見ていれば、妹の瞳から輝きが幾分か失せているのが、わかるぐらい、不登校の苦痛がわたしのからだにも、こころにもしみついている。
「あなたの妹さんも、不登校の要素は持っています。姉妹ですから」
と主治医は言ったが、そんな理屈は妹が傷つく言い訳にもならない。確かに、離れて暮らしていても、わたしと母と祖母がどうしても似るように、妹もわたしに似る。妹が嫌いになる人間は、だいたいわたしも生理的に受け付けられないのだ。
怒りは、間近で暮らしている母や、妹の父親のほうが強いだろう。わたしが愛しているよりもずっと深く、彼女を愛しているだろう。愛がわからなかったわたしは、不器用ながらも妹という少女を愛していて、できるならばすべての苦痛から守れる、そんな姉となりたかった。
「苦痛も成長には、必要なことがあります。
 わたしはあくまでもあなたはお姉さんでしかないから、口出しはあまり賛成できません。お姉さんが、というよりは、両親がどうにかすべき問題です。
 それでも、あなたがこれからも苦労をともにする覚悟があるというのなら、わたしはもう何も言いませんが、今はあなた、まず自分の足で立てていますか?」


数学も物理も苦手だけど。国語や歴史や美術なんてものしか、わたしには、ないけれど。
あの子がわたしを育ててくれる。一緒に育っていける。かつて日記にそう書いたことがあったが、わたしは決して妹の不登校なんて望んではいなかった。
わたし自身、まだ不登校を乗り越えられてはいない。学校へ行くとイヤな記憶がよみがえってしまう。
もし、可能ならば。
わたしはそれをあの子と乗り越えたい。