C君と話していて気づいた。
これは欠点なのか、そうでないのかよくわからないが、欠点のように思う。
わたしは7つの春から筆談で生きてきた。世の中の人が思っている『ろう教育』からは遠ざけられていたから、手話をまともに見たのは高校を出てから、しかもドラマやドキュメンタリーなどでだ。聞こえない友達も居たが、やはり彼女も手話は使えないようで、互いに筆談で楽しんでいた。楽しければ、それでいいと思う。だが、問題はそこにある。
普通でもできると思っているのだが、わたしには、書いている最中の文字を読んでしまう癖がある。既に書いてある文字をさかさまで読むという特技はないが、書いていく過程がわかれば、さかさまの状態でも理解してしまうし、手許が見えなくてもペンと手の動きで判読可能だ。
この癖を活用して筆談を素早く済ませたことは何度もあるし、毎日のようにやっている。でも、さかさまのメモを見ているのにうなずくのは、よくないことかもしれないと思えてきた。それが本当に通じているのならいいのだが、書いていてくれている人に失礼な気がしたのだ。
「ホントにわかってる?」
とも恩師にこの癖を発見されたら、訊かれそうだ。わたしは「わからないこと」「できないこと」は恥ずかしいことだと思い、聞き取れない言葉もあやふやに笑ってうなずいていた。「あなたが聞こえないのはあなたが悪いんじゃない。でも、わからないことに対してうなずくのは、悪いことよ」と教えてくれた先生は、元気だろうか。「あなたがわたしに言ってくれないと、わたしはあなたが何を理解していてできないのか、わからないのよ」…
やってはいけないとき*1に唇を読み、やらなくてはならないとき*2では読めない。リハビリは「ねこ」「てじな」「いぬ」「がっこう」などの簡単な単語から始まり、クリアするたびに文章になり、複雑な音が入ってくる。主治医の唇を読んでいるのであって音を拾っているのではないことに気づかれて、口元を紙で隠されてしまったとき、わたしは単語なら何とか理解しようと、ずっと相手の顔を見ていることに気づいた。
会話でそれが難しいのは、単語だけではなく接続詞も入るからだ。会話をしてみればわかることだが、「それは…うーん…これこれでね」なんて話されると、どこを飛ばしてどこを拾うべきか、わからない。「これは、それ?」と聞き返せば、表情で「あたり」「はずれ」がわかる。


問題なのは、筆談やチャット、メッセンジャーという目に見える文章の途中で、あいづちを入れてしまうことだ。わたしの頭の中にはいくつかの辞書のようなものがあり、文章を構築する単語が何パターンか「話の途中で」並べられてしまって、最後まで読まなくても「はい」と言う癖がついてしまった。
ちゃんと伝わっているなら問題ない、という人もいるだろう。だが、それは話の腰をいきなり横ざまに折るようなものであって、話し相手には最後まで話してもらい、その上で――どう答えるか、答えられるか、とっくに脳の中でわたしが動いていても――うなずくべきではないだろうか。
そのほうが、相手も気分を悪くしないで話せる。相手の気分を気にしてて本音で話ができるか!! という人もいるし、それは正論だ。
わたしは、こうやって7つの春から生きてきた。疲れるのも当たり前かもしれない。もしも聞こえていたならば、ということは何度か考える。今の自分は決してなかっただろうし、失ったものも持っていただろう。父の希望通りのおとなになっていたかもしれない。でも、わたしは母がわたしに何を望んでいたのか未だ知らずにいて、もしかしたら、母は何も望んでいなかったのかもしれない、ということにすら気づかなかった。
ただ、すこやかにあってほしいと。
もしそうならば、わたしはひどく母を傷つけただろう。だが、しょうがないのだ。父と母から生まれたとはいえ、わたしは全く別個の存在なのだから、その人の望むようには歩めないからだ。
「あなたは自分の親のようになりたくないと悩んでいるけれど、同じになる必要はありますか?
 あなたさえ望めば、親と違う生きかたも、ちゃんとできるんですよ」
わたしは、自分に何を望むのだろうか? それすら今は見えてこない。


しあわせになりたいと。
大切な存在をしあわせにしたいから。

*1:たとえば補聴器のリハビリ

*2:マンツーマンでの会話