親としての役目とは何だろう、と思うときがあります。子供を成人させるなら、お金がなくてはなりません。しかし、その前に愛情もなくてはなりません。マザー・テレサの言葉に「あなたの心が痛くなるほどに愛しなさい」というものがありますが、わたしはその言葉を初めて聞いたとき、涙があふれて止まらなかったものです(同時に、こんな人になるのは無理だな…とも思いましたが/墓穴)
愛の何たるかを知らなかった頃は、恋をしている人がうらやましかったりもしました。不倫だの浮気だのは、ウチがそれで破滅してるので「やるなら迷惑かけない場所でやってくれ」(わたしにとっては大迷惑)なものでしたが、それさえなければ相手が同性でも応援してました(事実、わたしは相手に対して尊敬や思いやりや優しさを持てるなら、同性愛もありと思います。男女で恋愛でも暴力とかは最低)
ところで、聴力がほとんどないときのわたしは、目に見えるものを頼りに生きます。たとえ聴力がかなりいい成績の日でも、わたしは何がどんな音をさせるのか知らないので、冷蔵庫がちょっと開いていてアラームが鳴ったときは、軽いパニックになったりもしました。何かの警告音なのにガス警報機でも水道でも電気でも、無論Macでもないので、聞こえるのをこれさいわいに彼氏に電話で「変な音がしてる。何の音かわからないよー!!」と泣きついて、指示を受けてあちこち歩いて、そばにある電化製品の名前をあげながら「冷蔵庫のドアが開いてるんじゃないの?」と言われて、とても安心してお礼を言ったりしたものです。
音があるならあるで悩む。ないならないで悩む。
聞こえるがゆえの苦しみもまたあるのだろうか、と考えたのは、両親が離婚したあとで、目の前にいるふたりが大声で早口で言い争っていたとき。「いらない」「困る」という言葉が切れ切れに聞こえてきて、補聴器の訓練のために唇を読んでカンニングするのが得意だったわたしには、堪え難いものでした。
唇がわたしの名前のかたちに動く。その名前は本来なら、いつくしみを込めて呼ばれるべきである名前なのに、ふたりが言い争うだけでまったく意味のない、あるとするなら個体としての意味しかないのではないか――
わたしは。
いらないと言われるためにこの名前をつけられたのではない、
そう叫びたかったけれど、ふきこぼれる涙をこらえて「いい加減にして。聞こえてるよ!!」と怒鳴って黙らせるのがせいいっぱい(つまりわたしには聞こえていないと思ってた)でした。「そんなにやりたいなら、わたしは2階にいく!!」自室のドアを乱暴に閉めて鍵をかけたのは、あれが生まれて初めてだったように思います。
それから、わたしはこの名前がとても嫌いになりました。可愛い名前だと言われても、わたしは親に捨てられるほどの可愛くない子だ、と。子供のことが憎い親なんていないと言われても、わたしはあやふやに笑って「そんなのキレイゴトです」と流すしか知らない制服に包まれた少女が、わたしでした。
「親は子供より先に死ぬんだよ。あなた、おとなになったらどうやって生きていくつもりなの?」と恩師に叱られもしましたが、「わたし、別に死んでもいいです。おとなの自分って想像つかない」
…委員会とクラブのかけもちをして、週3日を部活動についやしながらも、わたしは自分というもの、そして「それ」が歩くべき道が見えませんでした。そもそも、高校を卒業できるとは思ってもいませんでした。季節は確かにめぐるのに、毎日学校へ行けば寒さや暑さを感じるのに、友達におはようと笑いかけながらもどこかで生きることを放棄していました。
ひとりだちすれば殴られないで済む、と考えたことはありません。それ以前に、それができるようになる前に、わたしは死んでいると思っていたから…だから、思い入れのある何かのために命を投げ出すことは、わたしにとって憧れでした。
「わたしはあなたが交通事故にあいかけたら、かばってかわりに死んでもいいよ」
と、友達に言ったことがあります。その言葉に偽りはありませんでした。わたしには、友達は誰もが大切でしようがない存在であり、それは同時に、自分を大切とは感じられないということでもありました。今でも、「あなたのためなら命をかけてもいい」という友達がいます。でも今は、昔同じようなことを言ったときとは、全然違う気持ちが、わたしのなかにあります。自分が死ぬ理由を友達に求めるのは、友達を侮辱した行為だから…本当に大切なら、死ぬ理由を求めたりは、しないものです。生きる理由は、求めても。
今夜、わたしは少し、この体に流れる血が憎くなりました。
「頭がおかしい」と言えば娘はおとなしくなって泣くとでも思っているのでしょうか? あいにく、わたしはそこまで弱くなくなりました。以前なら泣いたり怒ったり、絶望して手首に刃を当てていたでしょう。けれど、わたしの心にわきあがってきたものは、ただただ憐憫でした。
「50になってまでガキでいるんじゃねえよ!! 2で割ったら25だろ!! 半分生きててもおとなじゃねえよ? いい加減にしな」
あなたよりも母のほうがずっと親らしくおとなだ、と言うこともできましたが、それは言いませんでした。言ってはならない言葉があるのなら、親がそれを言ったからといって、子も使っていい理由にはまったくならないからです。言ったからといって何になりましょう?
心から流れる血で、我が家が溺れるだけなのです。