日記才人」も「テキスト庵」も更新をさぼりがちだ。これじゃ所属している意味がない。と、わかっていながらも、そこまでの気力は今はない……(ついに毎日書いていたミクシィもさぼりだした…)
倦怠感重く、食事もままならない。起きているのがやっとで、好物である紅茶を教えてもらった通りに煎れて、それだけが喉を通るような日。かといって、ずっとピルを飲み続けるわけにもいかず、わたしはこうして月に一度は倒れてしまう。二十歳前まで楽だったのになー。主治医は「どこにも(内臓には)異常が見受けられないので、強度のストレスで悪化を招いているのでは。冷え性も関係していると思われる」というし、事実、脳神経外科で脳波を取ると、

「α波がほとんど出てないです。

(しばし沈黙)

…全然出てないですよ…」

コンナノアリデスカー!!(B'z「さまよえる蒼い弾丸」調で)
精神科で出ている薬を飲んで、薄暗い部屋で脳波を取っても、このありさま……
「リラックスできたら出るんですけどね…」
「どうやったら、リラックスできるんですか?」
「…」←困惑の表情
「…」←期待のまなざし
「人によりますしね!」
そうきたか。さすが医者だ、なめちゃいけない。
そんなわけで、わたしは疲れ果てて何もできなくなる日が多い。かろうじて水分とって生きてます、ご飯は食欲が出たらたべます、という日がある。

先日、
「君が見ている風景はきっとシュールに違いない」
とネット母に言われ(とある絵を一緒に見て「サーカスの絵」なのに「きいろ」と言ってしまった。中央部分は確かに黄色を使っている)「シュール」をウィキペディアで調べていたら、「ダダイズム」というわけのわからない単語がどんどん目についてしまい、それをまた調べてしまう。
フロイト」については「京極夏彦のえがいているフロイト」というのが頭に出てきたので、調べないですんだが、それはあくまでも「京極夏彦のえがくキャラクターが想像したフロイト」にしか過ぎず、「多くの精神科医が理解しているフロイト」ではない――というようなことも都合よく忘れ去って。
何でも、人が(多くの人が)認識している「風景」と、「わたしの認識している風景」は違うらしい。買い物へ出かけても子供のようにあれにこれに関心をひかれ、ふらふらと近寄ってしまいかける。急いでいないときはその関心を思う存分満たすことが可能なのだが、そのときのわたしはガンガンとβ波を出していて、α波がまったく出ていない。
シュルレアリスム」……不条理…不思議…超現実…
木は「風景」のなかのひとつに埋もれているが、その木に珍しい鳥がとまっていたり、季節の花を咲かせていたりすると、わたしの関心はそこへ集中してしまい、周囲がまったく見えなくなる(それしか見えない)ので、木はその瞬間、すでに「わたしの興味の対象物」となってしまい「風景」たりえなくなる。
自分で撮影した写真は「梅」「菜の花」「場所は姫路」、「猫」「うちの」「場所は自宅」…という認識があるが、それは「わたしが認識したものを撮影しているから」であって、「人がサーカスを描いた絵」は「黄色い」と言ってしまうありさまだ。
そして、そこで「そういうのって疲れない?」と訊かれる。確かに疲れる。わたしの疲労の原因は、おそらくこの認識方法にある。脳だけが疲れてもなあ…そりゃ寝られないなあ。
……あの、脳波をとった部屋の「白い無機質な天井」は、ほかの人から見たらどう見えていたのであろうか? と疑問をいだくわたしであるが、疑問点はむしろ現在「この疲れる脳みそを何とかする方法」であって、「他人が見た風景」にあるのではない、という理解はしている。


脳にα波を出すこと。
疲れないものの見方をすること。
どちらも模索中だ。
とっとと見つかるものではないのだが、わたしはそれを探している。