カウンセリングへ。もはや習慣となっている。
待ち合い室は結構すいている。わたしは遅刻がデフォルトでついてくると言われるほどの女だが、今日はなぜか予約時間より早く到着。準備をしていたときに「今日はなんか急がないといけないなあ」と思っていたら、患者さんがぎゅうぎゅうで、1時間きっちりしか話せないとのことだった。…虫の知らせ?(爆)

今回話したのは、パソコンのこと、猫のこと、両親のこと。
思えば、父と2人の生活は毎日が全力疾走だった。加減を知らない男手と、泣き虫で神経質なわたしと。ぶつかりあったことも一度や二度ではなく、やはり「出て行け!!」と殴られて蹴られて、玄関まで襟首をつかんで引きずられていったことも一度二度ではない。わたしがまだ子供だった頃(今でもガキだが)は、わたしに勝算はなかった。自室に駆け込んで鍵をかけて、どうして置いていったのかと、母親を思って泣き叫ぶことしかできなかった。
父は、わからなかったのだろう。「わたし」という存在をどのように扱えばいいのか。

そして母も、わたしをもてあましていた。
性格の色が濃すぎるあまりに、聞こえる時分から何かと周囲が手を焼くことが多かった子供だ。それも「子供のすることだから」と、大人になればおさまると――見落とされたADDの子のように――考えられていたから、なおさら周囲は戸惑った。大人になればなるほど、わたしのまとう空気は変わっていったし、個性が色濃く出てきていた。傷まみれになってもいた。感受性が五感のひとつを失ったがゆえにか、強く尖りすぎてみずからを傷つけることすらあった。

「母と話したいことがあります。
 でも、そのことは母にとって決して楽しくはない中身です。
 でも、知らないままでいると、わたしは前に進めない。
 母を傷つけたくはないのに…」

ここでわたしが先生に話した「母と話したいこと」は、耳のことだ。
わたしは、成人前後は主治医から直接の説明を受けていたし、主治医も「あなたのお父さんに話すよりは、少しでも医学知識があるあなたが噛み砕いて話してほしい」とわたしに言っていた(父はナースである母の半分も理解していたかどうか、やや疑わしい)ので、そのあたりのことは知っているが、母がいた頃のことは、何ひとつ病気と障害に関して無知だった。母はわたしの治療に熱心だったし、リハビリもそうだったし、母に任せておけば間違わないと思っていた。
けれど母は、そんなふうに頼られていることを知っていたから、なおさら重たいものを背負っていただろう。




自分のことを知るのは権利であるはずなのに、わたしはまだ及び腰だ。
「お母さんを傷つけたくないということも話してみませんか」
沈黙も、ときには刃となることがある。
言葉を刃とせずに、こころを洗う澄んだ水のようにするのならば、わたしはいったいどうすれば良いのか。
よく考えて決めようと思う。