水曜日から予定していた鼓膜切開。
朝、中途覚醒しつつも何とか眠りを得て、目覚めたとき、やはりわたしは不安と恐怖を少し感じた。
主治医の腕は信用できる。というよりも、わたしはM川先生ほど優しくて腕も良いドクターを見かけたことはない(内科のH川先生もすごく良い)。M川先生はいつもわたしに優しいが、それはどこかただの“ドクターとクランケ”という関係を超えてしまっている節も否めない。白衣を見ただけで泣き出す小さな女の子は、やはり小さいまま成人して(苦笑)、メイクやお洒落も覚えて、恋もした。先生はそんなわたしを、20年以上見守ってきてくれた、父のような人である。
親友が耳鼻科系の病気なのでこの主治医と会わせたところ、「…火花散らされた…」そうである(笑)
「なんかなー、ウチの大事な娘に変なことしたらタダじゃおかんぞ!! みたいな…」
そんな親友も、最近は睨まれなくなってきたようだ。



さておき、鼓膜切開。
わたしの右中耳には、鼓膜が奇跡的に再生してから、いつも何か粘液がたまってしまっている。それが耳の痛みを引き起こしたり、聴力低下の一因ともなる。限度を超えると勝手に出てくるが、それまではほとんど何も聞こえない不自由と、鼓膜が張る不快感に耐えねばならない。粘液が出たからといって聴力がいつも良いわけではなく、わたしはそのことで落ち込んだり、苛々しやすくなっていた。聞こえないので、会話が成り立たない。聞こえないので、後ろから自転車が走ってくる危険に気づけない――
治療ができるということは、治療できない人よりも恵まれている。
わかっていても、苛々は募った。


聞こえないことが苦痛だと主治医に話したとき、「補聴器をつけてみるか」と数年ぶりに言われた。しかし、わたしの難聴はジグザグな山あり谷ありのタイプなので、合う補聴器を探すことがとても難しい。右耳は治療も病気もあるから、左耳にかけることになる。昔使っていたタイプは、すでに耳穴のサイズも、周波数も合わなくなっていて、つけるとしたらまた支給してもらうしかない(補聴器は市からの支給品)
何ヶ月かかるかわからない補聴器探しのあいだに、わたしはたぶん耐えられずに倒れたり、苛々したり、かんしゃくを爆発させたり、最悪の場合、鬱や不眠がひどくなるかもしれない。それならいっそ、痛くても鼓膜切開のほうを取りたかった。


やはり麻酔は、わたしが大量に薬を飲んでいることも影響して、効きにくくなっていた。耳の痛みは、わたしの深いトラウマだと知っている主治医は、無理をさせたくないようだった。何しろ、わたしがこの人と出会ったきっかけが「わたしの暴れる音と叫び声と号泣」…だったというのだから。
のちに語ってくれた。「ああ、あの子はとても痛いことをされて怖がっているんやなあ…」暴れる子供に、親までが手を焼いた。そんなときに、わたしを引き受けてくれたのが、このM川先生だった。病気が複雑だから助教授に診てもらえるのだとばかり思っていたが、M川先生は、わたしが厭がる治療は緊急でもない限り、ひとつも行わなかった。わたしが心の扉の鍵を「この先生なら」と開けたのは、音を無くしてから10年後のことだった。
「痛かったら挙手」
という紙を、主治医は何度もわたしの目の前に垂らした。
「うううう」
と、痛いのに我慢できるからと、歯を食いしばっていたら、また垂らされた。
わたしの手は挙がったり斜めになったり落ちたりと、変な動きをメスとともに繰り返していたが、「いっ…たーい!!!」と空中で何かをつかむように突き上げたきり、動かなくなった。何度も鼓膜を切ったわたしは、抉るような痛みが「うまくいった証拠」だと知っていたので、もう手は動かさずに済んだ。
お手製チューブを鼓膜に留置して、耳の穴を消毒して完了。
その後は、副鼻腔炎の疑いがあるので来週また検査するということ、聴力検査のこと、抗生物質と消炎剤のことなどを話して、終わった。




…もっとも、終わったのは耳鼻科だけであって、わたしは午後にまた精神科へ行かねばならなかった。
「片付けがちっともうまくできない」という悩みを打ち明けると、こちらの主治医は《片づけられない女たち》という本を貸してくれた。さっそく読む………ああ、あてはまりすぎ。


そして、新しいノートでチャットをして、ライブチャットも初めて楽しんで(しかも半分寝ている)、わたしの1日はこうして終わった。