具合は思わしくない。月曜夜から、アナフラニールトレドミン50に戻す。来週になれば、少しはこんな気分もマシになっているだろうか? 不眠も何とかなっているだろうか…と、痛む頭をかかえて、頭痛薬で眠る。なのに起きても頭痛は続いていて、次の薬を追加する。
こんな頭痛は、久しぶりだ。今までなら違う痛み方をしていたのに、ひんやりと冷たい汗を浮かべている額が痛む。身動きしても痛む。風邪の初期や疲労に似ている。熱はないが、念のため入浴は控える。

そんなこんなで、やっと起きられたのは夜9時。新しいブラウスを買ったり、クリスマスケーキの予約も頼まれているのに、今日も動けなかったという嫌悪感が、血液に乗ってざわざわと、わたしの体を駆け巡る。自分を責めても何も出てくるわけがないのになあ、と、しみる目薬をさして、柔軟体操をくり返す。長く同じ姿勢でいた後は、それが寝ていようが立っていようが座っていようが、動かないと、体がかちんこちんになってしまうのだ。この夜は、本を持っていた両手と腕がかちんこちんで、手の体操だけで一苦労する。



子供の人生は、親がある程度の決定権を握っている。
だがしかし、それも『ある程度』でしかなく、子は成長とともに親からは切り離されてゆく。誰によってかというと、本能によってだ。どんなにか弱い子供でも、自分で歩くこと、決める気持ちを知っている。
それは、障害のあるなしにかかわらず、どの子にでもみられる、自然な行為だ。
「いつか、わたしの子もリスカするようになるのかな。 あんたもやってたじゃないかって」
気に病む友に「そんなことはない」と言う。
「それを言うなら、わたしは不倫も浮気も母親がこうだから、父親がああだからって、やっても責任を親まかせにすることはできるし、他人に好き放題言わせることもできるけど、たとえわたしがそんな行為に走ったとしても、わたしは絶対に親とは関係ない!! って思うし、言うよ。
 だってわたしの人生だもん」
――わたしの人生だもん――
正直、自分の口からすらっとこんな言葉が出るとは思っていなかったので、自分で驚く。
「わたしの人生だもん!!」…かぁ。この前まで、親と同じような生き方をするのではないか、壊れてしまうのではないか、自分の人生なんて言われてもわからないと、泣きじゃくるしかなかったのに。

わたしの人生。それを生きる、わたしの命。
わたしの命をつくってくれた人。救ってくれた、人。
誰に何にどう言われても、わたしの人生は、わたしにしか生きられない。
叫べ、「それはわたしのものなのだ」と。
走れ、誰にも歩けない、自分だけのコースを。
そして、
生きろ、どんなことが待ち受けていても。

こんなことでは、へこたれない魂を、わたしは親から貰っているのだから。