価値のある・なしは、誰かに決められるものではない。誰かに決めてもらったほうが楽なこともあるが、それでは本当の意味で見いだして決めたことには、決してならない。また、価値をつけることそのものが、愚かしい行為に思えてくる存在すらある。
世の中は、たくさんの不思議であふれている。

半分九州の血を引いているわたしは、青白いが血の気は多い。思えば、関西出身の父よりも、九州出身の母のほうが、何かとアツくなる人であったように思う。正義感が強く、今でもとばっちりを喰らうことがある。この人が母であったからこそ、わたしは生まれて、今、こうしてここにいる。
ふたりの別れはつらかった。誰も憎まなかったといえば、それは嘘で、わたしは父も母も、憎しみで殺せるなら何度も殺せるほどに憎んで、怒りを抱いていたこともある。これからも、知らなかったことがあきらかになるにつれて、そういうことはあるかもしれない。そしてわたしは、自分を憎む――何故。何故、産んで育ててくれた親を憎むのだと。ひどい娘だと。

今でも。
自分が何を求めて生きるのか、わからない。
そもそも何故、自分に命があるのかも。
何かを好きになっていつくしむことも、何かが嫌いになって憎むことも、わたしの中では等価値の存在だ。これはプラスでこれはマイナスだと、分ける必要は本当はどこにもなくて、わたしはひたすらに、そのときのわたしを受け入れて受け止めて生きていけば良いのではなかったか。
プラスとマイナスの磁力というものは、確かに存在する。
それを等しく我が身の内におさめることが、できたなら。
苦しみも痛みも、解き放てたなら。
存在する喜びを感じられたなら。

それが、わたしが変わるときなのだろう。


たくさんのものを失った。健康、普通、聴覚、安眠、耳の骨。つらくてつらくて、ぼうっとして高い建物を見上げたことは、数え切れないし、点滴を見つめて泣くことすら忘れたこともある。それでもなお、わたしは決してどん底にいることはなく、励ましてくれる人がいた。支えになる何かがあった。
苦痛とともに感じた歓喜こそが、今のわたしをつくっている。