遺された者には、義務がある。
そう書くと、過酷なようだ。いや、過酷そのものに何があろうか、そう思う――だけど言葉なんて、書き方で、どうにでもなってしまうものだ。それでも、その奥にひそむ感情までは、隠せない。

誰でも、簡単に日記を書けるようになった。しかも、ネットで。インターネットに接続することが可能なら、誰でも匿名や記名で日記を公開することが、可能となっている。何もかもを匿名にするも、イニシャルにするも、仮名にするも記名にするも自由だが、それはしょせん、《書く人間》の自由でしかないことは、書く以前にわきまえていなくてはならない。
そして、もうひとつ大切なことは、名前や地名や特定の名称を出さなくても、冒涜されるものがある、ということだ。書いたものは、書いた本人にしか、守ることはできない。著作権などは法律で何とかなる部分も多々あるが、その内容に及ぶとなると、どうなるのか。
ネットワークの海には、亡き伴侶・子、友、恩師など「自らが敬愛する対象」に向けたメッセージがあふれている。そのメッセージは、優しい想い出や、あたたかい感情を呼び覚ます。まだインターネットが普及していなかった頃、わたしは闘病記や遺稿集といったかたちで発行された書物を手にしていたが、本人の書いたもの(日記にかぎらず)が、公開されていることも、珍しくはなかった。
どこをあらわにすべきか、隠すべきか。出さずにおくべきかは、遺された人々が慎重に決めるしかなかった。なぜなら、一度かたちになったものは、消しがたい威力をもつからである。
インターネットという便利なものがありふれている昨今、人はそのことを忘れがちである。便利なプログラムは人を匿名にし、饒舌にもする。行き過ぎた書き込みやURLアドレスが、のちのち問題となり、削除されたり、ひどくなると攻撃対象となることもある。削除ならまだ甘いほうで、仮借ない攻撃は人を傷つける。
受け取る人だけでなく、それを目にする人も傷つける。
「削除されて傷つきました」なんてのは、甘ったれの言うことだ。
覚悟が足りない。そういうことだ。
削除されるまで、わからない。攻撃を受けるまでわからない。このような人間が、自由にインターネットに接続できる環境は、いかがなものであろうか。そんな人間が、遺していったものたちを穢し、貶める。そんな現実がある。
誰が守るのか。守るべきであるか。守れるのか。
生者のほかに、それはない。

そしてその《生者》は、今これを書いているわたしであり、読んでいるあなたである。ほかに、誰がいるというのだ…?


遺された者には、義務がある。
それは、生を謳歌すること。