4度目のカウンセリングは、いつもより早い時間に開始された。この日は風が強く、昼下がりにクリニックへ向かおうとすると、吹き飛ばされそうなほどの風が襲いかかってくる。やや体重が増えたわたしは、「軽すぎて吹っ飛ぶ」名誉にあずかることはなかったが、目に眼鏡なんて無視した風が突っ込んできて、ホコリやら花粉やらで目が痒くなってきてしまった。このまま歩いていると、両目ともにひどい状態になると悟って、タクシーで向かう。
先月気づいたのだが、わたしはこのクリニックへ行くのに、ひどい遠回りをしていて、それゆえ想定した時間内に到達することが困難になっていた。大通りをいくつか渡れば、自動的にクリニックへたどり着ける道が我が家からはのびて、いた。にもかかわらず、わたしは何度も迂回して、時間も体力も浪費していた。

つまらない悩みだと、自分のかかえるものを見て思う。
世の中には、わたし以上に苦労をし、つらい思いをしている人なんて、たくさん、いる。戦争だとか飢餓だとか、もう自分の力ではどうにもならない大きな不幸に見回れていても、力強く生きている人がいる。当たり前のように大学に行き、辞めて、働きもしないわたしがのうのうと生きている、この国の風景は、心臓にうまれつきの障害があって、「ある程度の技術を要する手術」を赤ちゃんのうちに受ければ元気になれるのに、お金がないからと、泣く泣くあきらめるしかない、待望の赤ちゃんをさずかった両親のみている風景では、ずいぶんと違うだろう。

くだらない悩みだ。
痩せたい、ダイエットしたい。
もっと頭が(しかも楽して)良くなりたい。
オシャレをおぼえたい、お化粧もしたい。
(自分の理想の)良い異性にめぐりあえない。
どれもこれも、生き死にのレベルで考えると「低俗」で「バカらしい」悩みにしか見えない。スーパーで寒天を買いあさって野菜を食べることを忘れているような女には、後ろから9センチのミュールでその穴をぶよぶよしているお尻にあけて差し上げたい。寒天だったらお菓子に使うものもあるんだから、どうせならそっち食べて運動しろよ、なんて毒づくこともある。そういった女もくだらないが、わたしはもっと、くだらない。

そうして「くだらない」と世の中をはすに構えて生きていったり、「バカじゃないのか」と罵られて悔しかったりしながら、生きていく。わたしにとって、くだらない問題にみえても、それは当人からしたらとても重大な悩みであるかもしれない。
友達は、わたしと居るとプールへ猛暑でも遊びにいけない。ドクターストップは、ずっと続く。きっと結婚だの妊娠だのいうイベントができても、一緒に子供と水遊びしてあげられない母親になるだろう。
こんな女の子供にうまれるいのちは、不憫だ。
だけど、わたしは?

死をみて生をみつめて、いのちをみいだす、わたしは?
音が無い世界は、寂しいだろうか。
こんなにも、色あざやかに動くのに。
そして聴力が少しでも良い日は、多すぎる音と色をさばけず、戸惑う。
わたしは、世界に既に戸惑っているわたしを、みいだしている。
生きているということ。生きるということ。
つまらないことで悩む自分の小ささ。



「何もかもにやっぱり意味はあるのだと思いました」
友を奪う、死にさえも、わたしは、生きているかぎり、意味をみいだせる。
それは哀しみであり、闇であり、痛みであり、苦しみである。涙である。
生きているわたしは、泣く。死者は泣けない、だから生者は死者の分まで泣いて、笑って、いろんな感情を抱いて、自分の人生という長いながい線路を、歩いていくのだ。
生きるために何かをすることに熱心ではないわたしは、生活のために何かをすることに熱心だ。生きることは生活することとイコールではないが、それでも、ひとかけらであることに、かわりはないのだ。