わたしは、潮騒の自分の耳に届かないという事実を「残念なもの」として、受け止めた。受け止めはしたが、受け入れているのか、はなはだ疑問である。対面と受容は違うし、受け止めることは、受け入れることと決してイコールとならない。
「どうやったら、明石大橋を突っ走る車内で潮騒が聞こえるんだ」
たぶん、誰にもこれじゃあ聞こえないだろう、と、わたしは妙に納得してしまったのだった。この距離と遮蔽率で「耳元で潮騒がする」などと言おうものなら、耳鼻科と精神科の主治医がカルテを両手に小躍りして、学会向けに論文でも書こうものではないだろうか。
そんなアホみたいなことを、考えていた。


泣こうが笑おうが、時間は確実に過ぎてゆく。いつでも、どんなときでも。
お墓参りの帰りに、そのまま自家用車で海へ連れていってもらったことも、そのお墓の近くに母校があり、昔の通学路を車でたどったことも、学校へ行っていたこと、そして、そういったことをディスプレイに向かってキーを叩いて打ち込んでいることさえもが、現実味の薄い『誰かの何か』としか感じられず、『自分の体験でなければ何なのか、他人のものなのか』そんな疑問がよぎる。
夢のせいらしい。

目の前にトラタクシーが4台も並び、その最後尾に停まった5台めは普通のタクシーだった という夢がひどくリアルで、目を開けた瞬間、自分はどうして寝ていたのかといぶかるぐらいなのだから(なんて良い夢をみたものか)
リアルすぎて、却って無気味である。
何よりわたしは、なぜこんな夢をみてしまうのか、まったく理解できてないのである。「トラタクシーは人気なのか」と、よそのタクシーの運ちゃんと議論したことは記憶に新しいが、「このタクシーは黄色だから、トラ縞にしても似合うと思うんですよ」だの「お客さんが他のタクシーをすっ飛ばして『うちはあのシマシマのタクシーに乗りたいんや!!』って騒ぎそうですね」と言ったとか言わなかったとか、それが運ちゃんにウケた、そういう珍事? はあった。
だからって、なんでトラ?
しかも、その夢に出てきた人は全員大阪人の友達。
いつから兵庫県民であるわたしのなかで「トラは大阪」という定義ができてしまったのか――
きっと、わたしの周囲のトラキチが、全員大阪人だからだ。そう思おう。
チャンスがあれば、乗ってみたいトラタクシー。

ところで疑問に思うこと。
潮騒と海鳴りの違いがわかりません…えーと、広辞苑広辞苑(元国文科)