携帯電話という名称は、どこまで正しいものか。
わたしは、我が家に関して『携帯電話』について考えるとき、その端末が『携帯電話である』と考えるのに、いくばくかの違和感をおぼえずにはいられない。

父と駅前のショッピングモールへ行く。
「ちょっと買わねばならないものがあるんだけど」
と、男性がしりごみしそうな――しりごみしない人がいるというなら、見てみたいものだ――ショップの名前を告げる。
「そう。じゃあ、本屋で待ってるから」
父は居なかった。時間をかけてしまったのだろうか? だとしたら、帰宅しているかもしれない。携帯をいじくると、留守電を解除している自宅の電話は、むなしいコールを続けた。買い物は父が仕事から帰ってきたその場で(どっちかが)思いついて実行にうつされた行為であるから、わたしの記憶が正しければ父は携帯を持ってきていない。
やはり持っていない。コール音さえしない。

数時間後、父は帰宅した。
「仕事場の人と会っちゃって、喫茶店行ってた」
「そういうときは、携帯に連絡してから行くように」
だって携帯はウチに置いてきたんだもん という顔を父はしていたが、言うのはやめたらしい。言おうものなら「持ち歩かない携帯電話は携帯とは言えない」という長い反撃を喰らうからである。