「どうですか?」
というのが、医者の合い言葉なのだろうか。どうですか? と言われても、見てわからないから「どうですか?」とか「いかがでしたか?」と訊ねられるのだけれど、わたしは適確な言葉を使うことができない。誰かに宛てて書くことと、人を前に話すことは、いくら原稿があってもまったくの別物であるということを、わたしは人前に出ると実感する。
レジュメと原稿以外に、まとめられたためしがない。
しばらく、「具合はどうですか?」という問いかけについて「わたしはどう答えるべきか」と考えあぐねて、「わかりません」としか答えられない。だったら、最初から「わからないんですけども」と言えば良いものを、どうやら、わたしはそれができない人間であるということにも、気づく――正解をさがして、いるからだ。
この「どうですか?」に正解は存在しない。
正解など人生や生きることそのものにあるものか、ということを知ったのは、なんと先月のカウンセリングや、10年間続けている治療の経緯上にあるというのだから、笑ってしまう。何が正しくて、何が正しくないのか。正しいことを人に言うことは良くて、そうじゃないければ悪いのか。書いた文章とわたしの思考がかけ離れてしまうという、困った事態も発生しており、書いたことから読んでくれる人々が連想する「あれく」と、「あれくそのもの」は、やはり、どこか差違のあるものと思われる――が、このようなことを書いて、また気づく。
「文章と書いた人のイメージなんて、違っていてもそんなのは当たり前だ」と。

診察は、いつも筆談だ。この日も、見なれた字がメモ用紙に並んでいく。
「今、どれが一番つらいですか?」
わたしは、『眩暈』『動悸』『発汗』の3つの単語をじっと見つめて、最後のは除外して、真ん中を指差して、最初の単語にそのまま指先を滑らせる。ときどき、指先が2つを行ったり来たりすることも、ある。つまり、主治医がこうして症状を並べてくれないと、わたしは上手く説明ができなくて、結果として適切な治療ではない方法を取ってしまう危険もあるのだった。
この診察では、うつ悪化(正式にはうつ病ではないが)ということもあり、さらに口下手。症状を話すのにも語彙がほとんど頭に浮かばず、「もう、つらいんです。いつになったら治るんでしょうね」と、力の入っていない表情を動かしてみたが、主治医はその表情に、何を見たのだろうか?
わたしは、わたしの表情を把握することが、なかなかできない性質である。


並べられた、3つの症状に関する言葉。
「このうち、いちばん苦しいのはどれですか?」
「…なんでわかったんですか?」
「どれだと思います?」
わたしは、主治医がおもな症状をすぐに書いたことに、不思議さを感じてしまったのだ。そう、どうしてわかったのかと。確かに同じような症状はあったけれど、最近はおさまっていたし…

「医者だから」
と、主治医なら苦笑して言うだろう。