眠剤からドラールを抜く。もともと、耐性がつきやすい薬物は、続けて使用するべきではないということ、ドラールを半分にしないと半日は眠る(なんと半減期20時間/錠!!)ことなどを挙げると、むしろユーロジンセロクエルハルシオンで中期の熟睡を得るほうが、体には良いという。
正直いって、戸惑った。これから梅雨に入るし、既に体調も崩れがちだ。そんなときに、眠剤を減らしたくはない。だが、昼間にトレドミンを入れてしまうと、ドラールユーロジンを切らねば、おもに食欲減退のダメージが来るし眠気もトロトロと続く。1年近く飲んでいたドラールを切る*1ことは、勇気が要る。それでも、トレドミンがうまく効けば、夜もちゃんと眠れるようになる確率も高い。
処方を1週間に短縮して、様子をみることになった。
離人はだいぶマシにはなった。まだ、鏡に写った人間を自分として認識する意識は淡いし、どこかへ出かけても「本当に出かけたのだろうか?」と、実感できる日も、あまりない。クリニックで治療しているという現実すらが、薄いヴェールの向こうがわにあるような感覚で、自分が診察を受けている実感がまったくない。
筆談の紙は、もらう前に破棄される。
「あなたは治療内容をおぼえようとするけれど、おぼえられないのに無理することはない。
 とくに今は状態が状態だから、実感も記憶もないかもしれないけども、こちらとしても無理におぼえていようとされるよりは、自然に記憶できるときが来たことを知りたい」
のが理由。
むろん、記憶を失くすと進展もない。同じことばかりを、気づかないで解決するまでずっと、話しつづけてしまう。それが、わたしにはひどく苦痛だった。
「おぼえてないでしょ」
と言われるたびに、そのまなざしや声音に批判の色などなくても、無意識に責められなじられているような感じがしたからだ。日記を書きつづける理由のひとつは、「忘れないようにという自分からの命令」に起因する。
決して忘れてはならないこと。
どうしても忘れたいこと。
忘れなくては生きていけないほどの傷。
しかし、そのどれもが、今のわたしをかたちづくっているものに、ほかならないのだった。
過去、ひどく身勝手な子供だったわたしを、現在のわたしは綺麗に消してしまいたい。なぜなら、そのとても未熟なわたしの姿や振る舞いが、現在の、やはり未熟なわたしの意識のどこかを痛めつけ、苦しめるから。
だが、痛くも苦しくもない過去から、学べることなど、あるのだろうか――?

愛していたことも、愛されていたことも、全部、
この、傷まみれの体と心がおぼえてる。

*1:いきなり中断すると悪化するケースもある