NTTに「ADSLのサポートは電話しかないのか。聴覚障害で聞こえないのでネットが全く繋がらなくなったとき、とても困る(要約筆記の説明など)。ファックスでの連絡は不可能なのか」という内容を問い合わせに添えてみた。
無回答か。…とても良い根性だ。
脳裏に爽やかにやや凶悪な感情が浮かんだのは、絶対に気のせいだ。一言「ございません」と書いてあるのと、そのことに触れてこないのとでは全く違うということを、天下のNTTはご存知ないのだろうか。いや、まがりなりにも大企業、そんなことは間違ってもないだろう。
世の中が自分を中心に回ってくれたら楽だろうな、なんてふてぶてしく思うときは少しある。しかし、そんな世界に住んだら、きっとわたしは退屈で退屈でしょうがなくなってしまう。
病気になるということは、自分の体も思い通りに動かせないということで、障害があるということも、そういった面では似ているだろう。健康な人は概して後者を気の毒に思うものだが、治らない病気にかかってしまった人と、ありていな風邪で3日もすれば元気になる障害者って、こう書いてしまうとどうなるのだろう?
ただ、そのへんの風邪でも障害の重さや部位によっては、致命的にもなる。
もし、何もかもが自分の思い通りになる世界だったら、環境だったら、生きていくことは思い通りにならないことがあるよりも難しい。挫折を知らない人間が、ちょっとつまづいただけで絶望に呑まれてしまうように、思い通りにならないことがおきたら、そのときどうするのだろうか。どっちの世界も、結局わたしから見ると「不自由」な感じがする。とても。
思い通りにならないことが続発すると、人間のみならず生命あるものは苦痛をおぼえる。そのとき、どうにかして脱却しようとするか、変えてみようとあがくか、楽になれるのを待つか、どれが正しいのかはケースバイケースで、「これが正しい」と言えるものはないが、わたしには「今は流れを読んで待つ」というのが、なかなかできない。
自分のことならいざ知らず、法的未成年という殻をやぶってもなお、それでも「時間に任せるほか、どうしようもないこと」には頻繁に遭遇する。
わたしはそれを認めたくなかった。
できないことがあるのは、決して恥ずかしいことでもなんでもなく、自然なことなのだと言われても、できないことがあるたびに、わたしはどうしようもなく駄目な人間なのだと、思えて仕方なかったから。
音があろうとなかろうと、できないことにはぶつかってしまう。わたしは「できないこと」を減らしたかった。だけどそれは「できることを増やす」のではなく「わたしのなかにおいて、できないことを無くす」であり、「できること」ではなくて「わたしのやりたいこと」だった。
やりたいことができるわけではない、それが生きていくうえでの、暗黙の了解であるにもかかわらず。

今は、時間の流れを感じるも、悪いことではないだろう。