お父さん、と呼んでみた。
お母さん、とも呼んでみる。
幼い頃は、随分とこの2人を怨んだものだ。今の感情は『わからない』。憎んでいるかもしれないとは漏らすが、愛していると言ったことはついぞない。子供というものは、親に対する絶対的な神話のようなものを感じているそうだ。そして、それが時とともに崩れはじめると、子供はいわゆる反抗期を迎える。

わたしは母と別居して、父と同居している。そして今一番の感情は、昔のように「3人で暮らしたい」のではなく(無理だとわかりきっているから)、「どちらとも離れたい、できることなら自活をしたい」だが、それをまた小泉が作ってくれた変な法律が阻んでくれる、というわけだ。



おとうさん、と呼んでみた。
おかあさん、と声に出してみた。
わたしは、その2人が『どんな人なのか』忘れかけてしまっている。
――認識できないのだ。


薬で頭がぼんやりとしている所為だろうか。わたしは薬漬けになってしまった自分を愛せない。認められない。認めたくない。許せない。薬さえ飲まなければ頭ははっきりするのにと薬を憎みながらも、飲まなければ数時間で切れて苦しむ羽目になる。
体の痛みはある程度の我慢がきくし、わたしは痛みに強いといわれる女という生物なので好都合だ。だが、胸を突き刺すこの鈍い痛みには、いつまで経っても慣れやしない。その鈍い痛みはわたしに混乱と落涙をもたらし、眠りと沈静を奪う。ひとしきり泣いたあとは、少しは混乱はましになるけども、わたしは泣くのが嫌いだ。


泣いたら泣くなと殴られて育った。だからわたしは泣くことをわたしに禁じている。
そしてそのうち、わたしから、感情というものが剥がれ落ちていく。

おとうさん、おかあさん。
あの日流れたわたしの血は、見えないところから流れる涙だったよ。
2人とも親にぶたれて育ったのに、どうして痛みがわからなかったの…? わたしは、それが不思議だよ。