わたしは、話し合いが得意ではない。どちらかというと、苦手だ。というのも、わたしはどうやら「キレる人」であるからだ。わたしはそれを認めたくないし、キレガキだということも認めたくない。だからキレにキレた挙げ句、話し合いのための場をメチャメチャに壊してしまうのだ。人はそれを「とてつもない癇癪」と呼ぶ。
キレたが勝ちが持論のわたしは、人の話を最後まで聞けない、情けない大人になっていた。もともと会話というものが少ないこの、音のない世界ではあるが、去年から、『自分が人と話していて、どんな態度をとっているか』に気づきはじめた。気づき――とするよりは『気にし』はじめた、とするほうが合っているように思う。
わたしは、言葉の勉強に『字幕映画』を入れていたがために、主語と述語が抜けてしまうことがある。国語の試験では、そのようなバカバカしいミスは犯さないが、日常においてわたしは、そういった『バカバカしいミス』を、頻繁に犯してしまっていた。それまでは、何かしらのフォローがあったから、全然気づかなかったのだ。
「何が、どうしたの?」
「何がって、●●がですけど」
「ちゃんと主語をつけないと、わからないよ」
書き言葉は、主語と述語から修飾語、あらゆる定理を満たすものしか受け付けてはもらえない。しかし、話し言葉となると、その定理は古い脆い薄い壁でしかなく、ちょっとつついただけで、崩れてしまい、話し言葉としての定理をその上に打ち立てる。

話し合いは、わたしの苦手とするところだ。
ぐるぐると頭を言葉だけが空回りして、軽いパニックを起こしたことさえ、ある。
そんなわたしが、誰も立ち入らせずに一対一で『キレずに』誰かと話し合うということは、勇気を必要とした。
わたしは、憶病者だった。それでいて貪欲であった。駄々をこねる子供のように。

その話し合いは、わたしに幾つかの理解をもたらした。
『当事者どうしで話すべきことは、第三者を通さないほうが良いこともある』ということ、『どれだけ周囲がやきもきしても、本人が動かないかぎり、どうにもならない』という、この、ふたつの理解を。
疑問をもつこと。理解すること。
それはすなわち、人の生きる欲求そのもの。